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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第10話「それはひとつの火種」(1)

 耳ざわりのよいサロン音楽のなか、貴婦人たちが笑いさざめく。

 ゆるやかに長椅子に腰かけ、片手に紅茶、もう一方の手でサンドイッチや小菓子をつまみつつ、貴婦人たちは社交にいそしむ。

 ここでの話題は他愛のないものが好まれ、話題がなくなれば流行りの詩を読む。笑声といってもごく控えめに、たがを外すことなく、カルムイキア貴族として恥ずかしくない振るまいを誰もが心がける。

 それは、サロンという場所の暗黙の掟である。この掟から自由なのは、年端もいかぬ子供くらいのもの。

「——待って! お兄さま」

 幼い少女の声が、次いで小さな足音が、その場に響いた。「それ、返して!」

 追われる者は、音もなく貴婦人たちに近づき、たっぷりしたドレスの裾に身を隠してしまう。ドレスに入りこまれた婦人はたまらず悲鳴をあげ、隣の婦人もつられて裾をおさえれば、昼下がりのサロンはあっというまに混乱の渦に巻きこまれた。

 追われる者は、裾から裾へと移動していく。そのたびに悲鳴があがる。遅れて追う者がドレスに飛びこむも、悲鳴とともに拒まれた。それでも追いかけようと次のドレスに向かうも、はねとばされて尻もちをつく。

 追う少女は泣きだし、追われる少年は部屋の外へ逃げていった。手には、少女のものと思しき人形を持ったまま。

 そこで、ようやくサロンの主が、

「誰か」

 と、ひと言。

 次の間に控えていた従僕が、承って出ていく。サロンの主は、泣きわめく少女を抱きあげた。

「どうしたの、ヴィシー」

「お母さま、お兄さまがわたくしのシェンナをとった!」

 ヴィシーと呼ばれた少女は、しゃくりあげ、母にすがった。「シェンナの髪に糊をつけて、お日さまみたいにするっていうの。やめさせて!」

「ヴィスは悪い子ね。でも」

 女は少女に語りかけた。「一緒になって騒いで、みなさんにご迷惑をおかけするのは、よい子のすることではないわね」

「!」

 少女はびくりと震えた。

 すぐに、自ら母親の腕を降り、

「申しわけありません。お母さま」

 と、謝罪する。「もっとよい子になります」

「そう」

 女は小さく嘆息すると、つぶやくように返した。「まあいいでしょう」

 少女は満面に喜びをたたえて、母の腰に抱きついた。

 それから母の腰を放すと、みなさんにもお詫びいたします、お騒がせいたしました、と子供だてらに腰を折る。

 先ほどまで混乱していた婦人たちも、愛らしい謝罪にまなじりを下げ、「姫君もご一緒にサンドイッチをいただきましょうね」「人形を台なしにしようだなんて、ひどい兄君」と口々に慰めた。

 ややあって、兄である少年が従僕に連れられて戻ってきた。老いた従僕に促され、人形を妹に返す。母は何も言わなかったが、少年もまた謝罪した。まずは母親に、次はなじみの従僕に、三番めに貴婦人たちに、最後に妹に。妹に対しては不承不承だったが、曲がりなりにも非を認めたので、貴婦人たちは「さすが次代の皇帝陛下」と褒めそやした。

「ヴィシー、ヴィス、二人ともここにお座り」

 母は子供たちに呼びかける。「サンドイッチでも、ケーキでも、好きなものをおあがりなさい」

「はい、お母さま。ありがとうございます」

 二人の子ははつらつと返事した。皇帝陛下のお子は、二人ともとてもよいお子でうらやましいですわ、と貴婦人たちのひとりが言った。

 カルムイキア皇后ヴァランセア・エミルシェン・ド・トゥルカーナは、夫である皇帝の子を二人産んだ。

 第一皇子トラヴィスと、第一皇女ヴィシーリアである。皇子は五歳、皇女は四歳と、年子の二人は、目下のところ揃って心身健康であり、トゥルカーナ公女たるヴァランセアとしては、《英雄の子》の責務を果たしたことになる。

 おまけに、皇子皇女、皇后本人の評判はそれぞれに高く、ヴァランセア・エミルシェンは嫁ぎ先のカルムイキアで順風満帆といってよかった。

 しかし、

(ちっとも似ていない)

 と、彼女はひとりごちる。

 それは、皇子トラヴィスのことであり、「似ていない」のは夫である皇帝マルコス四世にではない。むしろトラヴィスは、成長するにつれて皇帝に似た部分がはっきりしてきているし、第二子ヴィシーリアにいたっては皇帝以外の子ではありえない。

(私は、あの子の子供を、孕めなかった)

 それが、ヴァランセアには無念でならない。トラヴィスが生まれたのは嫁して九か月後のことであり、時期からいって皇帝の子ではない可能性も充分に残されていた。が、いま目の前にいる第一子は、まちがいなく夫の子だ。

 ヴァランセアは思いだす。記憶の中の「あの子」の輪郭を、やさしくなぞる。

 ——黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳、春雨のごとき声……、

(私のクレイガーン)

 まだ幼くとも、限りなく美しかった。皇帝の子供たちとは、全然ちがう。

「お母さま、これ、おいしいですか」

「ええ」

 まとわりつく子供たちに、ヴァランセアは微笑んだ。

「お母さまもいかがですか」

「お母さまはお腹がいっぱいなの」

(オースティン)

 ——なぜ、あなたの子じゃなかったのかしら。

 従僕が再び近づいてくる。ヴァランセアは顔をあげた。この老いた従僕は、身ひとつで嫁いできたヴァランセアにとって古い侍従ではないが、代々カルムイキア皇室に仕える家系の者であり、信用していた。

「急用ですか」

「さようでございます、皇后陛下」

 ヴァランセアは立ちあがる。この従僕の「急用」といえば、ひとつしかない。「みなさん、ちょっと失礼しますわ」という言葉を残して、ヴァランセアは席を立つ。ついてこようとする子供たちを老僕に託し、ヴァランセアは侍女とともにサロンをあとにした。

 行き先は、夫である皇帝の執務室である。ヴァランセアが入っていくと、皇帝は機嫌よく笑った。ヴァランセアはその笑みに媚びを感じる。温情にあふれ、穏和であり、それでいて決断力もある、と巷では評判の皇帝なのだが、政治に関心のないヴァランセアにはどうでもよいことだった。

「ごきげんがよろしいこと」

「めでたい知らせがあってね」

 と、皇帝はいう。「たぶん、ぼくよりきみのほうが喜ぶと思ったんで、きみを呼びにやらせたんだ。貴婦人がたには、あとでぼくからも謝っておくよ」

 マルコスは優しく、夫としては申し分のない男だ。おまけに、ヴァランセアが故郷の弟恋しさに、近隣の農民だった少年エドモンド・クリスピニラに爵位を与えようとしたときも、あっさり承諾してくれた。

 それは、エドモンドが持ち前の才覚を示し、社交界での地位を確立した今となっては、皇帝夫妻の慧眼などと言われるようになったが、おそらく新妻に気前のよさを示したかっただけだろう。

 が、それでもヴァランセアはマルコスに愛情をもつことができなかった。ヴァランセアにとっては当然のことだ。あんなにも身近に、世にも美しい男を知った女が、夫となる男がどんなに美徳をもつ男であろうと、あの美しさを忘れて愛することなどできるだろうか?

「陛下がそこまでおっしゃるのなら、楽しみですわ」

「うん、これなんだよ」

 皇帝は手紙を差しだした。「ごらん」

「これは……」

 ヴァランセアは手紙をとった。封緘は——ラージャスタン皇家たるマキナ家の紋である。ヴァランセアは急ぎ便箋を取りだした。

 

 

〈このたび、当マキナ皇家第一皇女マーリ殿下、ならびにトゥルカーナ第三十一公子オースティン・カッファ殿下のご成婚のはこびとなりましたことをお知らせいたします。

 ラージャスタン皇帝ザーケンニ七世陛下代理人 イツァーク・カルミナ子爵〉

 

 

「……弟が」

 ヴァランセアは長く沈黙し、やっとそう返した。

「ラージャスタンは相変わらずのようだね。もう少し詳しく書いてくれてもいいのに」

 夫は微苦笑する。あんまりともいえる簡潔さは、マキナ皇家の例の「秘密主義」である。

「ほんとうに。弟は、いつラージャスタンに行ったのでしょう。お父さまも、全然……知らせてくださいませんでした」

「それはそうだろうね」

「お祝いを……」

「いいんだよ。ラージャスタンはそういう国だから、こちらも何もしなくていいんだ」

「でも、わたくしの大切な弟で……」

「むりだよ」

 言い募るヴァランセアに、マルコスは短く答えた。「ともかく、きみの大切な弟が無事に結婚して、うれしいことじゃないか」

 ヴァランセアは夫の執務室を辞した。

 オースティンが、ラージャスタンに入る。それは、オースティンがまだ美しい赤子にすぎなかったころから決まっていたことだ。

 だから、オースティンが美しい幼児から美しい少年に育ち、単なる弟以上に彼を慕うようになったとき、そうして自分が先にトゥルカーナを去ることになったとき、これが最後の機会と思い定め、オースティンに会いにいったのである。

 自分はもうオースティンとは会えない。オースティンはマキナ皇家の一員となり、二度と外界に姿を現すことはない。そのことは、とうの昔に納得したはずだった。それにもかかわらず、なぜ、めまいを覚えるような嵐に、今さら襲われるのか。

 ラージャスタン第一皇女マーリ、マーリ・マキナ。見知らぬオースティンの花嫁にして、立太子後はラージャスタン皇太女、すなわち次期皇帝である。

 オースティンは今年十六歳になる。たしか、ラージャスタン皇女は三つ年下なので、十三歳。早すぎる結婚だ。自分も十七歳で嫁いだとはいえ、そのとき夫マルコスは三十二歳だった。十六歳と十三歳では、幼すぎる。

 マーリ・マキナ。十三歳、幼さの残る少女。オースティンを見たあらゆる少女がその虜になるように、彼女も必ずや《クレイガーンの現身》たる弟に心奪われるにちがいない。

 マーリ・マキナ——

(あの子の妻。大陸でただひとり、あの子を自分のものにする、娘)

「お母さま?」

 彼女の娘が、母親を見上げていた。母親の帰りが遅いので、心配して迎えにきたようである。

「迎えにきてくれたの、ヴィシー」

「お母さま、お父さまに怒られたの?」

 おそるおそる尋ねる少女に、

「いいえ」

 と、母親は答えた。「お父さまは、お母さまを怒ったりはしないわね」

「それならどうして?」

 問いかける少女に、母親は答えなかった。

 女の脳裏には、ただひとつの名前だけがあった。それは耳ざわりな鐘の音のように、女の耳にいつまでもこだましていた。

 

 

  *  *  *

 

 

 シフルが完全に回復するまで、丸一週間かかった。

 もちろん生来の負けずぎらいたる少年は、二、三日のあいだ床についてある程度回復すると、ただちに病人暮らしを脱しようとした。

 が、そのたびにセージ、メアニー、キサーラのいずれかに阻止され、

「一回ぶりかえしたんだから、今度はちゃんと治さなきゃだめだよ」

 と、ベッドに連れ戻されてしまった。

 彼女たちの主張は至極もっともなのだが、少年としては焦りが募った。自分が呑気に寝ているあいだにも、慈善園の授業は着々と進んでおり、すでに一か月を切った休戦記念日の準備も、自分ひとりが取り残されている。特に、経験したことのない《黒袴》製作が気がかりで、気が気でなかった。

 しかし、日ごろあまり相性のよくない少女たちが、シフルをベッドに縛りつけておくという一点でなぜか一致しており、少年は一度たりとも脱出の機会を与えられることなく、ベッドに監禁されるはめになったのである。

「ホント、何しに来たのって感じだよね、誰かさんは」

 毎日、慈善園から帰ったルッツに嘲笑われ、シフルはそのたびうめく。

「ドロテーア、シフルを刺激しないでくれる? シフルはそういうのに弱い」

「もちろん知っててやってるよ」

 ルッツは猫の瞳を意地悪げに細めたが、セージは笑っていなかった。

「退屈なら、私が相手になろう」

「へえ?」

 ルッツの瞳がおもしろげに光った。彼女の黒い瞳がすばやく庭へと動き、ルッツがあとに続く。

「ちょっと待った。何する気だよ、セージ」

「ドロテーアの暇つぶし」

 セージは淡々と答えた。「前はときどき相手してたんだけどね。ヤスル教授に頼まれて」

 セージがいうには、実力に開きのある学院生に囲まれて腕がなまらないよう、ヤスル教授の指示を受けて二人で練習試合をしていたらしい。練習試合といっても、必ずしも教授たちの目があったわけではなく、教師の目の届かないところではかなり危険な召喚も行ったという。退屈な理学院で唯一おもしろかったのがそれだと、ルッツは言った。

「それぐらいのうまみがなくちゃ、とっくに学院なんか辞めてるよね」

「ドロテーアはこれだからな」

 セージは嘆息がちに、シフルの回復の邪魔をするなら仕方ない、とひとりごちた。

 とはいいながら、セージはセージで明らかにそこまで問題視していない様子だ。彼女はかつて精霊を戦争に使わせないようにしようと親友オコーネルと誓いあったが、そのくせ必ずしも平和的ではないのだ。ケンカっぱやいわけではないが、性格が冷静すぎ、目的のために必要だと判断したら手段を選ばないところがある。

「慈善園の試合だってあるんだから、それでがまんしろよ。慈善園のレベルなら学院よりかなり上じゃん」

「学院より『まし』のまちがいだよ、シフル」

 ルッツは薄く笑う。「それとも何? ロズウェルがだめならシフルが相手になる?」

「……わかった」

「まっとうな判断とはいいがたいな」

 セージの容赦ないひと言がかぶせられた。そして、つかつかとベッドに近づいてきて、少年のブランケットを整える。

「セージ、危ないことは——」

「今のシフルがドロテーアの相手をする以上に危ないことなんてある?」

 ぽん、とブランケットを叩いて彼女は言った。

「……ラーガなら」

「ふうん。自分の力を発揮できないときだから、ラーガさんの力に頼るんだ? 緊急時ならまだしも、こんなどうでもいい状況で?」

「う……」

「俺はそれでもかまわないよ」

 ルッツからの合いの手に、セージは彼女にあるまじき流し目をしてみせる。

「ドロテーアは私が相手じゃ不満?」

 シフルは唖然とした。ルッツはといえば、俺はどっちでもいいけどね、と肩をすくめた。

「心配しないで、シフル。ゆっくり休んでるんだよ」

 有無をいわさぬ笑みを残し、彼女は入口のむこうに消えた。

 ルッツ、待——と言いかけたシフルに手を振り、猫目の少年も出ていった。ほどなくして、けたたましい爆発音が響きわたったが、病床の少年はといえば音だけで圧倒されてしまい、参加するどころではなかった。やむなくシフルはブランケットで耳を覆う。

(くっそー……)

 ブランケットの中で少年は打ち震えた。(早く、早く治す! そんでもって追いつく! ちゃんと戦えるようになる)

 シフルはブランケットを突き抜けてくる音から努めて気を逸らし、全力でまぶたを閉じるのだった。

 療養中の一週間は、そのように己との戦いに明け暮れたのである。

 ようやく床を払った朝、シフルは渡り廊下に飛びだした。客舎のどこもかしこもが輝いてみえ、庭園の木々や花々の瑞々しさ、建築の細かな意匠の美しさのすべてにシフルは胸打たれた。実際、アグラ宮殿はラージャスタンの建築・造園技術の粋を結集した、この国随一の美術品なのだが、初めて心から実感したのである。

(一週間寝てたのだって、ムダじゃない)

 廊下を跳ね歩きつつ、シフルは思った。(思えば、こうやってからだを休めなかったら、何にも見えなかった。『精霊多き国』ラージャスタン——この宮殿だって、そのなかにあるんだ)

 確かに今回の一件は、シフルに口にできない問いをもたらした。しかし同時に、ラージャスタン入りして以来——いや、もしかしたら理学院編入以来かもしれない——ゆっくり休むことによって、曇っていた眼が晴れたような気がする。

(すべてはこれからだ。これからもっと、いろいろなことが見えてくる。ここに来れたこと、絶対ムダにしない)

「浮かれるのは勝手だけど」

 背後からやってきたルッツが、冷酷に告げた。「シフル以外、黒袴ほとんど完成してるからね」

 病気明けのばら色の気分が、急速冷凍された瞬間だった。

 

 

「《ダナンさんは補習をしましょう。今日から、夕餉のあとに登校してください》」

《いいですね》と書道教師タマラは優しく念を押したが、明らかに目は笑っていなかった。

 朝一番の慈善園年長組で、まるのままの《反物》を前にし、シフルは首を縦に振るしかなかった。

 周囲では、慈善園生とプリエスカの仲間たちが、ほぼ完成形となった黒い袴の仕上げにかかっている。自分の布と彼らの服のあいだにどのような経過があるのか、シフルには推測さえできない。わずか一週間のうちに、いったいどこまで遅れをとってしまったのか?

「《ダナンさんは寸法から。みなさんは昨日の続きを始めてください》」

 タマラはきびきびと言い渡し、まなじりを鋭くしてシフルに向き直る。「《さあ、立って。寸法を測りますよ》」

「……《はい》ッ!」

 そこから、ほぼ個人授業の裁縫の時間が始まった。

 シフルとしては、経験が一切ないだけに何が何やら呑みこめず、言われるがまま手を動かすのだが、わけがわからないままただ動かしているだけなので、しばしばタマラの怒りを買ってしまった。

 老婦人は、寸法、印つけ、裁断ときて、何度か無言で頬を引きつらせたあと、

「《ダナンさん、ふざけているのですか?》」

「《いえ、あの》」

 もちろん真剣そのものなのだが、何がうまくないのか、さっぱりうまくいかない。

 シフルにわかるのは、どういうわけか自分のハサミはタマラのつけた印とちがう場所を切り裂いたということだけだ。ハサミが切れないのか、布地のくせなのか、はたまたタマラのいうように自分自身に原因があるのか。だとしても、すでに布は断たれた。

「《やりなおすしかないでしょう》」

「……《すみませ》……」

「《いいですか、ダナンさん。あなたのその謝罪ひとつで、この布を織りあげた女官の数日間が失われたのですよ》」

「《手織り》……?」

「《もちろん。あなたがいま着ているものもそうです》」

 ひえ、とシフルは声をあげる。プリエスカで着ていた服などは、基本的に既製品であり、《王さまの学校》たる理学院の制服が職人の手製なのは珍しかった。もっとも理学院では、教科書と同様、過去の学生のお下がりをもらう場合もあり、親の援助のないシフルも当然そうだが、職人の手づくりがけっこうな高級品であることに変わりはない。

(それを、わざわざ留学生の寸法に合わせてあつらえさせたのか……しかも布から……なんつーか)

 さすがはラージャスタンというべきか。シフルは自分が着ている飾りけのない灰色の袴——アグラ宮殿到着時に替えも含めて何枚かつくってもらった——をしげしげと見やる。

「《ダナンさん、聞いていますか?》」

「《はい》ッ!」

 タマラに呼ばれて、直立不動の姿勢になる。「《女官のかたの苦労をムダにしてしまい、申しわけありませんでした》!」

「《わかっていただけてうれしいですよ、ダナンさん。では、それを念頭においてもう一度やってみましょう。今度は自分で印をつけてごらんなさい》」

「《はい》!」

 その後も、脇目を振る余裕など与えてもらえず、まだ午前中だというのにシフルは疲労困憊してしまった。

 そのうえ、あとには精霊召喚による戦闘法の授業が控えていた。あのがき大将然とした男子生徒にこてんぱんにやられて以来で、シフルは疲れと緊張と戦いながら中庭に出ていく。

 これが理学院の剣術なら、勝とうが負けようがかまわないという気持ちでがむしゃらに打ちかかっていくだけなのだが、あの一度の限りではがむしゃらが通用する相手ではなかった。また、理学院の精霊召喚の実践なら、真摯な態度で呼びかければいつかは応えてもらえるかもしれない、という希望に託して一心に試みつづけるのだが、人間が相手である以上、真摯さもむしゃらと同じくらい無意味だろう。

 問題は、一に才能、二に組み立て——すなわち戦術と戦略。才能のことは今は考えないにしても、組み立てのほうもこれといった準備ができないまま、うっかりこのときを迎えてしまった。

(全員がこのあいだのやつほどできるとは限らない。ファンルーさんは、自分はいい精霊使いじゃないって言ってたもんな)

 しかし、授業に対するクラス一丸となった熱心さを思うと、多少才能に難がある生徒でも手を抜くことは考えられない。そういう生徒は、それこそがむしゃらになってかかってくるにちがいない。シフルも理学院時代、全力を尽くせば負けることはないと思っていたが、ここでは全員が全力どころか死力を尽くしている。

 もちろん、空(スーニャ)の元素精霊長たるラーガの力を借りれば、どんな相手だろうと問題にならない。が、これは授業であり、シフルの訓練である。おまけに、ラーガについては先日の一件でファンルーから釘を刺されている。

 ともかく、準備が足りていようといなかろうと、この場であたうる限りの努力をしなければ、理学院に帰ったときユリスやカリーナ助教授、選抜にもれたカウニッツと目も合わせられなくなってしまう。

(とにかく、再挑戦だ)

 あの男子生徒に負けたのが引っかかっているなら、勝てるまで戦えばいい。それは、かつての《鏡の女》セージ・ロズウェルとの対決でも同じことだったではないか。セージとうっかり友達になってしまったのでうやむやになったが、あのころは日々勝ち目のない再挑戦の連続だった。どの分野で何度惨敗を喫しようと、あの日キリィを見せられるまでは懲りることなくかかっていった。

(よし、やるぞ)

 シフルは拳をぐっと握りこむ。黒袴の製作ですっかり消耗したからだに、熱をもった血がめぐっていく。

(ろくに会話もしてくれないなら、応えてくれるまで話しかけてやる。そんで、あいつとの戦いを通して、オレはオレのやりかたをみつけだす)

 シフルは中庭に集う生徒たちに目をやった。(まずはあいつを誘う。今度こそ名前聞かないと……そうだ、オレが勝ったら名前教えろって言おう。こばかにした態度で提案すれば、絶対乗ってくるだろ——あれ?)

 シフルははたと止まった。

 慈善園年長組は、シフルたち留学メンバーを入れて二十人しかいない。何しろとりつくしまもないので、まだ顔と名前がほとんど一致していないのだが、初日に隣席だった男子生徒と、試合した男子生徒ぐらいは顔を見ればわかる。

 が、なぜか、あのがき大将然とした男子生徒がいない。

(病欠かな?)

 シフルは人数をかぞえはじめる。(一、二、三……セージとルッツとメイシュナーとオレで、二十)

 もう一度かぞえてみたが、同じだった。確かに人数は留学メンバーを含め二十人ちょうど。それなのに、見覚えのある慈善園生は初日に隣席だった男子生徒しかいない。きょろきょろしていると、生徒たちの中から男子生徒が一人、おもむろに進み出た。

「《——誰か探しているの?》」

 色素が全体に薄く、春の雪のように儚げな男子生徒だった。容姿だけなら女子生徒といっても通用しそうだったが、声は低く落ちついており、腹の底に響く美声である。

(なんか、弦楽器みたいな声)

 慈善園に来て、まともに口を聞いてもらうのが初めてであり、妙に感動してしまった。

「《ん? どうしたの?》」

「あ、《ごめん。このあいだ試合したやつはどこかなって》」

「《カスバだね》」

 彼はすぐに答えた。

「《カスバっていうんだ。今日来てないみたいだけど、風邪でもひいた》?」

「《風邪なんかひかないよ》」

 少年はくすりと笑みをもらす。「《ぼくらは風邪なんかひけない。風邪をひく暇なんかない》」

「《そっか》……」

 過酷な環境で育っていないがための甘さを指摘されたようで、シフルは恥じ入った。「《じゃ、今日カスバどうしたのかな? オレまたあいつと試合したいんだけど》」

「《残念だけど、カスバはもういないよ》」

 彼は赤に近い瞳をすっと細める。

「《え》」

「《はじめまして、メルシフル・ダナン》」

 少年は手をさしだした。「《ぼくはミーザン。カスバの代わりにこの組に入りました》」

 静かにそう言われたとき、初日にシフルを鞭打とうとしたグールーズの姿が蘇った。

 同時に、ひょっとして、シフルのせいじゃない? といったルッツの声も。しかし、シフルはすぐさま頭を振って、目の前の少年に改めて対峙した。

「《もういないってどういう》……?」

「《本当にわからない?》」

 ミーザンと名のった少年は、ごくつまらないことという口ぶりで言う。「《メルシフル・ダナン。大事な留学生のあなたにケガさせたから、その日のうちに園を追放になったんだよ。代わりにぼくがこの組に上がったというわけ》」

 シフルは、思いきり頭を殴られたような気がした。

「《あなたはアグラ宮殿では特別な人なんだよ。理解しておいたほうが、いちいち驚かないですむよ》」

 ミーザンはそう続ける。シフルの無理解を、彼はよく理解していた。

「……《わかってたつもりだったけど、まだ慣れない。じゃあ、グールーズもそうなのか》?」

「《もちろん》」

 ミーザンは迷いなく答えた。「《慈善園の教師ふぜいが、ブリエスカからの客人を鞭打っていいわけがない。何を勘ちがいしたのか知らないけどね》」

「《そっか、教えてくれてありがとな。忠告もありがと》」

 シフルはようやく、彼の手をとった。「《名前を教えてくれたのも、あんたが初めてだよ。ミーザン。よろしく》」

「《?》」

「《くだらないことかもしれないけど、カスバは名前聞いても教えてくれなかったからさ。他のやつもオレたちを避けてるし》……」

 ついよけいなことまで話してしまい、シフルは口をつぐんだ。

 ミーザンは《ふうん》とつぶやき、二人を遠まきにする生徒たちを見渡したが、それについては何も言わずに、

「《どうしまして、といえばいいかな》」

「《いや、ホント助かる。オレたちは勉強するためにラージャスタンに来たんだ。ブリエスカで知りえないことが、ラージャスタンにはあるかもしれないから。留学生四人でつるんでるだけなら、ブリエスカにいたって同じだろ》」

「《それはそうだね》」

 ミーザンは同意した。「《ぼくらも、あなたたちから学べることがあると思う。だから皇帝陛下——炎よ、我らが皇帝を嘉(よみ)したまえ——は、あなたたちを慈善園に呼んでくださったんじゃないかって思うんだ》」

「《そうだな》」

 シフルは力強くうなずいた。

「《わざわざ、あんたたちをここで育ててくれてるんだろ? 皇帝陛下……は》」

 不慣れな言いまわしに、少しつまる。「《きっと、いろいろなチャンスを与えて、あんたたちを成長させたいんだ。せっかくのチャンスだし、お互いがんばろうな》」

 ミーザンは一瞬驚いた顔をしたが、

「《うん、がんばろう》」

 ややあって、また微笑みを浮かべる。

 赤に近い色をした瞳の少年は、シフルの手を握り返した。

 

To be continued.

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