精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第10話「それはひとつの火種」(4)
無人の静けさのなか、ぐう、と大きな音が鳴る。
音の発生源は、廊下をとぼとぼと歩く少年だった。力のない足音が、情けなくあたりに響いている。少年は立ち止まり、嘆息しつつ腹をなでた。もはや、エネルギーになりそうなものがかけらも胃袋に入っていない。
(みんなもう、メシ終わってんだろーな)
シフルはひとりごちる。(タマラ先生、ありがたいけど延長しすぎ……)
あたりはすでに真っ暗闇である。廊下や庭園には点々と火(サライ)の明かりがともされており、ぼんやりと木々や草を照らしだしていた。シフルはそのなかを、空腹に耐え、疲れ目をこすりながら歩いている。書道教師のタマラが、シフルのために遅くまで《黒袴》づくりの補習をしてくれた、その帰り道だった。
夕刻に限られた明かりの下で針を動かすのは、目にとってけっこうな苦役である。おまけに、キナリーの授業が終わったあとに始まった補習は、夕餉の時間が過ぎても終わる気配がなかった。眼精疲労と空腹が頂点に達したところで、ようやく解放されたのだった。
(まあでも、ちょっとだけ完成形も見えてきたし、これで安心)
シフルは大あくびをし、肩をほぐした。(今日はミーザンにも勝てたし。これからオレは何だってやれる。この留学で学べること、全部吸収する。それに)
シフルは手足に力をこめ、足をはやめた。オースティンといろいろあって以来、体調を崩していたのもあり、書庫での調べものが進んでいない。やはり例の
件は、何らかの客観的な裏づけがほしかった。ついでに、他にも気になる本が山ほどある。そのくせ夜は短い。
(あーもー、早く帰んないと! なんだって、こんなに広いんだ)
シフルはぼやき、次いで駆けだそうとして、
「ん?」
ふと、足をとめた。
闇に包まれた時間、宮殿と宮殿のあいだを行くシフルにとっては、火(サライ)のささやかな明かりだけが頼りである。
その明かりが、前方にみえなくなった。
(道、まちがえたか?)
シフルはそう思ったが、それはないだろう。宮殿内で迷子になった前科はあるが、もう道順は覚えた。
振り返る。自分がここまで頼りにやってきた明かりは、まだそこにあった。ほっとして道を戻りはじめた。
しかし、そんなシフルを嘲笑うように、近くの明かりが消えた。
「!」
思わず追いすがったシフルの前で、となりの明かりも消えた。点々と灯された明かりが、順番に消えていく。シフルの目の前で、小さな炎が次々と姿を消していく。
「待ってくれ!」
シフルは焦って声をかける。「火(サライ)、もう一度きて、廊下を照らしてくれ!」
動揺しているためなのか、火(サライ)は来てくれない。何度呼んでも、応えてくれる精霊はなかった。そうしているあいだにも、長い廊下のはるかむこうまで、小さな明かりは失われ、闇だけが残った。
ひたすらな暗闇——シフルは最近、そういう場所を何度か経験している。
(……また、あの夢?)
精霊を使役することのできない、不思議な闇の世界。となりにいるオースティンの気配だけが頼みだった、夢と地続きの現実。女の声と——自分を誘う、白い手。
(これは夢なのか? それとも、タマラ先生とかの現実が夢? オレはまだベッドで寝てるのか?)
そんなわけはないと思いながらも、混乱してきた。前にもうしろにも進めなかった。それに、ここが現実だとしたら、アグラ宮殿にはあの危険な火(サライ)の結界がある。暗闇のなかで動きまわれば、またしても結界に踏みこみかねない。
あの「声」は聞こえてこない。ここはあの夢じゃない。現実だ。火(サライ)の明かりが消えるまでは、自分は確かに現実にいたのだから。
(でも、なんで?)
現実だとすれば、なぜ急に明かりが消されたのか。消灯時間? そんなはずはない。遅くまで書庫にこもっていた日も、書庫の明かりを消されることはなかった。だいたい、足もとを照らす明かりを消されては、宮殿の他の客人もさぞかし困るだろう。シフルたち留学メンバーはともかく、外国の王侯にそんな待遇をしていいはずがない。
(だとしたら)
シフルの心臓が跳ねた。(なんで……?)
「——《誰かいませんか?》」
不安を振り払うように、大声で問いかけた。「《どなたか、明かりをつけてくださいませんか? ブリエスカの留学生メルシフル・ダナンです》」
答えはない。その代わりに、強い風が吹いた。それは、うなるような音をたてて、シフルのかたわらを駆けぬけていく。
(風(シータ)?)
なぜなのかはわからないが、シフルはそう思った。あらゆる風に精霊の存在を感じるほど、敏感な精霊召喚士ではない。けれど、闇のなか吹きつける風には、明らかに精霊の存在があった。正確にいえば、誰かに使役された精霊だ。
そんなことを感じたことなど、これまでになかった。しかし、シフルは確信していた。この風は、ただの風とはちがう。
「——《誰だ》?」
シフルは鋭く誰何した。「《オレに何の用だ》?」
やはり、答えはない。ひと筋の光とてない暗闇のなかで、風がうなるばかり。
妄想? それとも幻?
(よけいなことは考えるな)
シフルは自分に言い聞かせる。(ただ、起きたことに対処すればいい。今、オレがすべきことはひとつ)
「——火(サライ)ッ!」
シフルは全身全霊で叫んだ。
破裂音とともに、目の前が白く照らされた。おそらく、この場にあったのだろう何らかの結界は、これで破れたはずだ。自分が召喚できる階級の精霊が通用するぐらいの結界で、助かった。
(状況を把握する。見えないなら、見えるようにする)
少年の今いる廊下も、庭の芝生も、強い閃光を浴びて白くとび、輪郭を失った。
直後、再び強い風が吹きつけ、シフルは白い光のなかでよろめく。
そのとき、光のなか、男が宙に舞った。
男は、風にのって宙に浮かんでいた。風——つまりは風(シータ)に。
精霊が男のからだを運んでいる。実体のない風が大の男を運べるということは、そうとうの上級精霊にちがいなかった。
これが、先ほどから使役された風(シータ)を感じていた理由。あっと思うと同時に、男の手に刃が光ったのを、シフルは見た。
「はあッ?」
思わず素っ頓狂な声をあげて、
「言ってる場合じゃない」
なじみ深い、冷静な声に制される。
それは場ちがいなほど抑揚のない声で、現れた声の持ち主もまた、いつもの無表情のままだった。
「ラーガ!」
シフルと、風に舞う見知らぬ男とのあいだに割って入った青い妖精は、さっと手をかざした。かすかに発光する白い腕から、夜の闇よりももっと深い闇が、煙のようにひろがっていく。
男が息を呑んだのが聞こえた。男は暗い煙に包まれ、あっというまに闇に溶けこんでいく。
あとには、元どおりの静かな闇。
この場の異物といえば、淡い光をまとう妖精——空(スーニャ)の元素精霊たるクーヴェル・ラーガぐらいのものだった。
「俺が、この手で赤子のおまえをとりあげたのでなければ」
美貌の妖精は、侮蔑のまなざしとともに言った。「とっくにきさまなど時姫(ときのひめ)さまの子ではないと判断して、見限っただろう」
いかに愚鈍でも、残念ながら俺がおまえをとりあげたのはまちがいないからな、と付け足す。
「は……」
シフルは驚きのあまり、妖精の口の悪さに怒る余裕もなかった。嘆息とも何ともつかぬ声を出して、黙りこむ。今のはいったい何だ? あれは誰なんだ? 何のために自分のところに? いや、その問いは正しくない。正しくは、あれが本当に「そう」なのか? だ。
「ラーガ……」
空(スーニャ)の元素精霊たる妖精と少年以外に、いかなる精霊も人も存在しない廊下で、問うような声がぽつりと響く。
「この場所がどこか言ってみろ」
「ラージャスタン……」
「それも?」
「アグラ宮殿……」
「おまえはこの国にとって何だ?」
「『敵国』の……削ぐべき『力』」
シフルは問われ、はっきり答えてしまった。
口にしたあとで、怖くなる。今まで「仮想敵国」とか「留学生」とか「皇女夫妻の話し相手」とかいってごまかしていたのが、いかにも白々しく思えた。同時に、それを言う人々はまるで信用のならない連中のように思えた。小さな疑念と不安が明瞭なかたちをとりはじめる。何よりも、いまシフルを襲った現実がそれを促してくる。
「わかっているなら、油断はするな。——まず、ひとりで行動するな。あの女でも、他の留学生でも、ここの女官でもいいから、誰かと一緒にいろ」
女官は味方ではないが、一緒にいればある種の危険は避けられる、女官に襲われるようなときはここにいられなくなったときだ、とも妖精はいう。シフルは一応うなずいたが、焦燥感に駆られて、言葉のひとつひとつが頭に入ってこない。
「それと、緊急時は呑気に火(サライ)なんぞ呼んでる暇はない。いいから俺を呼べ。何より先に、俺の名を」
ラーガの濃青の瞳が、少年に迫ってくる。「メルシフル——我があるじよ、俺を、主を死なせた妖精にするな」
けれどその言葉は、少年の頭をこじ開けて入りこんできた。
「……、ごめん」
何度、いわれただろうか。この留学はシフルの手にあまると。だから、ためらいなく持てる力を使えと。ラーガにも時姫にも、幾度となく忠告されていたのに。
心配させているのに、自分にふさわしくない力だからと細かいことにこだわって、ちっとも忠告を聞かなかった。アグラ宮殿と慈善園での生活にだんだん慣れてきて、理学院時代と同じ感覚で過ごすようになり、ここに来て二度も危険な結界に踏みこみかけたことを忘れ、呑気にもこの暗いなかをひとりで歩いた。プリエスカ人で王立理学院の留学生であるシフルが、アグラ宮殿のなかにいる誰かにとって「敵」のひとりなのだとしたら、単独行動をとっているときほど絶好の機会はないというのに。
「おまえは、見事にプリエスカの平和な教育を受けてきた人間だ。プリエスカは、自分たちの歴史こそ平和とは縁遠いくせに、民を新王室に反抗させないことを主眼にしすぎ、民を『平和漬け』にして骨抜きにした。おまえはまさに骨抜きにされた子供」
「う……」
ぐうの音も出ないとはこのことだった。
プリエスカを建てたコルバ家は、長く続いたゼン家のロータシア帝国を滅ぼし、宗教や言語を統一して中央集権化を押し進めた。その他の政策について、シフルはよく知らなかったが、いわれてみれば戦いと隣り合わせのはずの理学院召喚学部にいて戦いかたがわからないというシフルの現状は、これまでに受けてきた教育に特徴があったことを示しているともいえる。
だが、他の子供と同じように骨抜きにされながら、自分はラーガと時姫という「幸運」によって選ばれ、それが通用しない場所に来た。
「せめて、それを理解したうえで行動しなければ、この国では生き残れない。時姫(ときのひめ)さまや俺の心配が、これでわかったか」
「……はい……」
「まあ、いい」
ラーガは長い息を吐く。「あとは行動で示せるな。メルシフル」
「……はい!」
シフルは縮こまったまま、力をこめて返事をした。「示します! もう心配かけません!」
「この、愚か者」
ラーガは言って、暗い床のなかに沈んでいく。「いずれにせよ、おまえが生きている限り時姫さまのご心配は尽きない」
妖精の青い頭は床のなかに消えた。
少年は、まったき静けさと暗さのなかに取り残された。先ほど閃光をもたらした火(サライ)は、すでにいない。
(火(サライ)にお礼を言い忘れたな)
自分のため息の音が、妙に響いた。(あんなときに来てくれたんだ。よくよくお礼いいたかったけど)
ふと、遠くから足音が聞こえたような気がして、シフルは顔をあげる。
女官のはく布靴が砂岩の廊下を進んでくる音だ。あまりにもここが静かなのと、さっきあんなことがあったから、感覚が鋭敏になっているのかもしれない。
前方から、ひとつずつ火(サライ)の灯火がともっていく。先ほど消えていったのとは逆に、点々と明かりが増えていく。明かりが増えるにつれて、それを操作する女官の姿も浮かびあがってきた。
袴は紫色、女官を統べる《五星》の一員のあかし。黄色がかった赤い髪を頭の高い位置で二本の三つ編みにし、くるりと丸く結わえている。
「《メアニー》……」
彼女は今日もこわばった表情をしていた。
ラーガを召喚すれば必ずやってくる彼女は、こんなときいつもそうだ。しかし、敵意に満ちているメアニーですら、今のシフルには安心できた。
「《だから言ったんですよ。シフルさまを野放しにはできないって》」
そう言って少年をみつめる彼女の瞳は、やはり昏い。が、シフルはつい口もとをゆるませた。当然、少女女官の険しい眼つきが、ますます怪訝そうになる。
「《何がおかしいんですか? 今日は、こんなところで何をなさっていたっていうんですか。この廊下は、客舎への帰り道からは外れているのに》」
メアニーは問いただす。「《それに、どうして廊下の炎たちがひとりもいなくなってるんですか? ——シフルさま、あなたはアグラ宮殿に対して、何をなさったんですか》」
「あ、《えっと》……ラーガ……空(くう)の妖精にちょっと来てもらって》……」
正体不明の男に殺されかけた、などと言っても信じてもらえまい。シフルはしどろもどろに説明する。当然、メアニーの眼は鋭いままだ。
「《どうしてそんなことするんですか? このあいだ厳重注意されたばかりじゃないですか。ねえシフルさま、用もなく精霊を使うなんてことありませんよね? 今日も、このあいだも、その前だってそうです。何か用があるに決まってますよね》」
「《いや、あの》……」
だめだ。この状況では、説得力のある説明はとてもできない。
先ほど命を狙ってきた相手は時空のむこうへ追いやられ、影もかたちもなくなってしまった。証拠は何も残っていない。風(シータ)に運ばれてやってきたのだから、おそらく足跡も残っていないだろう。証拠がなければ、襲われたといったところで妄想だと思われかねない。実際、プリエスカ人であればそういう妄想をしてもおかしくないような場所に、シフルは来ているのだから。
「《今日という今日は逃がしませんよ》」
メアニーは冷淡に言い放つ。「《ちっとも反省の色がないんですから、もっともっと厳しい措置をとってもらわないと!》」
(やばい)
シフルは焦って、急速に頭を回転させはじめる。(言わなきゃダメか? だとしたら、どこまで言えば? どう言ったらわかってもらえる?)
が、そのとき、メアニーが何かに気づいた。
床にかがみこんだ彼女は、手をのばして「それ」をとった。彼女がつかんだものを見て、あッとシフルは声をあげる。
暗い廊下のなか、火(サライ)に照らされて鈍く光る——それは確かに、今しがた少年を襲ったばかりの刃だった。
* * *
自分の息づかいと鼓動が、ひどく大きく聞こえていた。
アマンダは誰にも会わずに図書館から戻り、Bクラス寮の自分の部屋に飛びこんだ。扉を閉めてしっかりと鍵をかけたあと、彼女は初めて息をつく。幸い、ルームメイトはしばらく部屋には戻ってこない。今は授業時間中であり、まじめな彼女が授業中に居室に戻ってくるようなことはまずなかった。
ありがたいことに、ルームメイトはあまり他人に干渉しないタイプの人間だった。あるいは単にアマンダのような女生徒に好意をもてず、遠巻きにされているだけかもしれない。ともかく、少し気をつけてさえいれば面倒のない相手なのだから、本当にありがたかった。いま確かにこの手のなかにある不正を、アマンダにとって命綱ともいえるものを、誰にも知られないために、ルームメイトは最適の人だった。
セージ・ロズウェル——Aクラス時代のルームメイトたる彼女も、そうだった。でも、それはあくまでもAクラス昇級当初の話。シフルが彼女と仲よくなって、シフルの秘密を守るための提案を彼女がしたとき、すべてが変わってしまった。あの日から続いた、ごく短い幸福な季節を、アマンダは苦い気持ちで思いだす。ずっとあのままでいられたなら、どんなによかっただろう。今、こんなふうに過ごしていることのほうが、嘘だったなら。
けれど、もはや自分たちは変わってしまった。「秘密」を隠し通すためにみずから離れた自分。プリエスカを出たふたり。ユリスでさえ、今はアマンダの周囲を嗅ぎまわることをやめて新しいクラスに溶けこんでいる。ときおり、楽しそうに仲間たちと議論しているユリスを見かける。
あのとき、ユリスと目が合った。
図書館の、あの貸出カードの棚にいるアマンダを、ユリスは見ていた。ユリスだけでなく、男女問わず学院生の相談相手として頼りにされているエルン・カウニッツにも見られた。
——シフルの貸出カードを見ているのを、見られた。
(別にかまわない)
アマンダは、今しがた図書館から携えてきたものを抱きしめる。(もう、みつけた。手に入れた。これは私のもの)
シフルの何かが変わった日を、アマンダは正確に覚えている。ルッツ・ドロテーアが昼食のときに近づいてきて、ユリスと口論になった。そこにセージが伝言を持ってきて、ドロテーアはいなくなった。そして、その場に残ったセージが言ったのだ。
(私も、たまに探したくなる。誰かを試みてみたくなるよ。もっと本当のことを知ったら、どうなるか)
(じゃあ、試せよ)
そうしてシフルは、アマンダたちを振り返らずに彼女を追っていった。
そのとき何があったのか知らないが、彼は一時、見ていられないほどに落ちこんでいた。が、すぐに立ち直った。立ち直った彼は、本を読みふけっていた。暇さえあれば読んでいた。読みたい本があるから別行動をとる、と宣言してまで読んでいた。ユリスがいうには、朝ユリスが部屋で目覚めると、必ずシフルが机にむかって本を読んでいたそうだ。何を読んでいるのか聞いても、ああ別に、精霊召喚学の本、という答えらしかった。
その後、シフルが《時姫(ときのひめ)》という存在の息子であることが判明し、その時姫が貸してくれたという空(スーニャ)なる耳慣れない元素の元素精霊長を操って、彼は見事ラージャスタン留学を射止めることになる。セージたち《Aクラス四柱》の三人とともに、シフルはラージャスタンに旅立っていった。
アマンダは、密かにあの本が何なのかずっと気になっていた。落ちこんだシフルを、より力強く立ち直らせた本。
(私も力がほしい。シフルみたいな、セージみたいな力がほしい)
アマンダは思った。(きっと、何かがあの本にはあるはず)
けれど頭のどこかで、そんなばかばかしい話あるわけない、とも思っていた。だいたい、シフルは特別な出自ではないか。時姫という不思議な存在の息子だからこそ、空(スーニャ)という力を与えられたのであって、本が何かしてくれたわけではない。しょせんは生まれながらにして与えられた力なのだ。
しかし、実際に貸出カードをめくってみて、アマンダは驚いた。
——ベアトリチェ・リーマン。
それがその本、『精霊王に関する考察』全四巻の著者だというのだ。アマンダはその名前を知っていた。シフルと空(スーニャ)の妖精の話を立ち聞きしたときに聞いた、シフルの母である《時姫》の名前。
アマンダは、貸出カードの棚の前で唖然とした。
(シフルのお母さんが、著者? だって、五百年以上前の人なのに! それに、精霊王って何なの? だって、四大元素精霊を統べるものなんていない——でも、空(スーニャ)っていうのも『五つめ』の元素で、そんなもの授業でやらない……)
アマンダは混乱した。何が正しいのか、まるでわからなかった。考えてみれば、シフルの話を断片的に聞かされていて、これまで疑問に思わなかったのが不思議なぐらいだ。これまでに学院で教わってきたことは、まったくもって不完全ではないか。それなのに、あのときはシフルたちと一緒にいることが楽しくて、わからなかった。なんてばかだったのだろうと、今では思う。
茫然自失する彼女が、ようやくのことで顔をあげたとき、遠くから彼女を見ていたユリスと目が合ったのだった。これがまた、彼女を逆上させた。ユリスの視線を避けるように、彼女は図書館から逃げた。
そのとき、手のなかには、貸し出し手続きをすませていない四冊の本があった。以前から、アレックスのようなたちの悪い学生のあいだで、司書の目を盗んで閉架書庫から本を持ちだすことがあった。彼らは稀覯本を売り払っては遊びの金にあてていた。アマンダは連中に聞かされた手順で閉架書庫に忍びこみ、司書に気づかれずにくだんの本を持ちだした。
何食わぬ顔で図書館を出ると、全力で走った。こんなふうに走るのは久しぶりだった。優等生であるアマンダは、いくら「恋人」のアレックスの生活態度が悪くても、社会的に問題視されるような行動をとったことはない。まごうことなき衝動によって、アマンダは『精霊王に関する考察』全四巻を持ちだしていた。
いまアマンダは、洋服箪笥の下着の奥に残り三冊を隠し、第一巻だけを机の上においている。昼間にもかかわらず窓のカーテンも締め切っていた。彼女のその部屋の中だけが、黄昏時のように暗かった。
卓上ランプをつけると、簡易装丁の『精霊王に関する考察』第一巻が浮かびあがる。
(精霊王)
——それが、私の力になるのなら。
そうして、彼女はその粗末な本のページを繰った。
To be continued.