精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第10話「それはひとつの火種」(3)
「えっ、と……?」
シフルは首を傾げた。自分がやったとは思えなかった。でも、落ちているのは相手の刃で、自分ではない。
シフルは手もとを見る。柄を握る手と指、それから刃の根元。最後に先端を。何の変哲もない自分の手と剣だ。
いや、ちがう。よく見ると、刃の縁がうっすらと赤みを帯びていた。もともとこういう色だっただろうか、と触ろうとしたシフルに、
「《触っちゃだめだ!》」
ミーザンが注意する。「《あなたの呼んだ炎がいる》」
《火傷するよ》とも。シフルはびくりとして、手をひいた。そこでようやく、少し前に精霊の名を叫んだことを思いだした。
(火(サライ)、来てくれた)
真剣勝負の最中だというのに、思わず口もとがゆるんだ。
刃の赤みを凝視する。指を折らずに空(スーニャ)の元素精霊長以外を召喚したのは、これが初めてだった。それに、剣に精霊を宿したことも。こういう使役方法があるとは知らなかった。
つまり、こういうことだろう。シフルに呼ばれて現れた火(サライ)は、剣の刃に憑いた。刃は火(サライ)を宿したことで熱をもち、ミーザンの刃を斬りつけた拍子にミーザンの剣——精霊のいないただの鉄を、焼き切ったのだ。
自分で意識して経過を目撃できなかったのが、つくづく悔やまれる。
「こんなこと、できるんだ……」
感動していつまでも刃をみつめている少年に、
「《剣精というんですよ》」
と、ヴァルーが教えてくれた。
「《剣精》?」
「《妖精の一種です。人でも獣でも植物でも、精霊は何にでも宿ります。といっても、こういう無機物は精霊にとって居心地が悪いといわれていまして、あまり長居はしてくれないんですけどね》」
《ほら》と言われ、改めて刃を見ると、みるみる縁の赤みがひいていった。シフルの目の前で、刃は本来の冷たさを取り戻していく。ミーザンをちらりと見やると、うなずいてくれたので、シフルは金属部分に触れてみた。それはすでにただの金属だった。
「火(サライ)、ありがとう! 《ヴァルー先生、ありがとうございます》」
シフルは礼を言って、再び試合相手の少年に向き直った。「《悪いミーザン、試合再開だ》!」
「《望むところです》」
ミーザンは先のない剣をもったまま、同じく動きだす。「《もう何も教えてあげないよ。ぼんやりしていたら、勝たせてもらうから》」
そういえば、真剣勝負といいながら試合を中断し、ずいぶん気をつかわせてしまった。《ごめんごめん、ホントにまじめにやるからさ》とシフルは言い、再び自分の剣をにぎりしめて向かっていった。
もはや、戦うことについて悲壮な気分はなかった。今のシフルを満たしているのは、喜びに近い感情だった。
ミーザンの攻撃手段を、ひとつ奪った。精霊の新たな力の発現を知った。ひとつ、ラージャスタンで収穫を得た。
——あとは、どうしても今、目の前の少年に勝ちたい。
「行くぞ!」
試合が始まるまでの委縮が嘘のようだった。シフルは、自分が理学院にいたときのように自由に動けているのを感じた。
(そうだ)
と、シフルは思う。(オレは、ここでも自由なんだ!)
金属音とともに、火花が散る。ミーザンは根元しか残っていない剣で、器用にシフルの剣を受けとめた。
「《ばかのひとつ覚えは通用しない! ぼくはあなたよりずっと多くのことを教えられてきたんだ》」
「《それってどんな》?」
シフルは押す。ミーザンは押し返す。文字どおりのつば迫りあいだ。
想定していない質問だったらしく、ミーザンはいぶかしげな顔になる。シフルはにんまりと笑った。
「《ミーザンはこれまで、どんなことやってた? オレにも教えてくれよ。もっと知りたいんだ、いろいろなこと》」
シフルは問いかけながら押していく。「《たとえば、オレたちがいなくなった午後、いったい何を教えてるんだ? オレたちには教えられない教えって感じだよな》」
「《そんなこと……ないですよ!》」
答えかけたミーザンに、黙って風(シータ)を見舞ってやる。風(シータ)の五級精霊が、勢いづくシフルを後押しするようにやってきて、ミーザンの顔に強く吹きつけた。風はミーザンを害することはないが、いらだたせることはできる。
「《そうか? だって、オレたちも慈善園の一員として、『将来は皇帝陛下にお仕えする』ってわけだろ。わざわざ留学生専用の授業なんか用意しなくても、他のみんなと同じ内容でもよさそうじゃんか》」
シフルは思いついたことを適当にしゃべりつつ、精霊が意外なほど簡単に来てくれることに驚いた。声を使わずに呼ぶのは今日が初めてだというのに、自信に満ちていると精霊にまで信頼されるのか。何級の精霊が来ているかさえよくわからないが、ともかく来てくれる。シフルを助けてくれる。戦うシフルのそばにいてくれる。
いや、戦いなんて、そんなに差し迫ったものともシフルには思えなかった。もっと軽やかで、もっと楽しく、心強い。
——さあみんな、オレと一緒に、あいつと遊ぼう!
シフルは大気中にいる者たちに、心から呼びかけた。すると、何ともつかぬ色合いの光が、シフルを中心に飛び散った。
「《! 結晶光》」
ミーザンはそう言った。知らない単語だが、《結晶》の《光》と聞こえた。精霊たちの感情の結晶ということだろう。うまいこと名づけたものだ。
プリエスカでは専門用語としては知られておらず、単に精霊の喜びの発露として認識されていた。それだって、なかなかに珍しいものなのに、やはりラージャスタンの精霊召喚学はずいぶん進んでいるようだ。あるいは、精霊の絶対数が多いという有名な言いまわしのとおり、そもそも精霊の数が多く、結果として優秀な精霊召喚士が多く、精霊召喚学が発達しているのだろうか。
(なんか、この光、ずいぶん久しぶりな感じする。いや、赤じゃないところを見ると、火(サライ)ばかりじゃないのか。他の精霊もいる)
いろいろな色が混ざりあう、微妙な色の光。前に自分は火(サライ)に愛されていると聞いたが、他の精霊はどうかわからない。しかし、それが何の精霊だろうと、大歓迎だ。この遊びに参加してくれる精霊なら、みんな一緒に来ればいい。
水(アイン)、とシフルは頭のなかで呼ぶ。試合の戦略的なこととは関係なかった。単に水(アイン)を呼びたくなったのだ。すると、特に頼んでもいないのに、水(アイン)はミーザンの頭上から盛大に水を流してくれた。
風の次は水を頭からかけられて、ミーザンはさすがに怒りをあらわにする。命を賭けるという約束のはずが、試合の決定打となる行動ではなく、精霊を使ってからかうようなことばかりしているのだ。怒るのもむりはないが、そうはいってもわざわざ深刻になろうとは思わなかった。
そう思ったとき、ミーザンの眼が急に鋭さを帯びた。
「!」
——強い精霊が、来る。
シフルは直感的に思った。遊びが許されるのはここまでか。いや、ここまで遊ばせてもらっただけでも、親切だったと考えるべきだろう。前回のカスバは、迷うシフルをほとんど尊重しなかった。
むろん、試合である以上当然なのだが、シフルは舌打ちした。負けるだろうことの悔しさや、強大な精霊に襲われる恐怖より、せっかくの楽しさがここで終わることへの口惜しさがあった。もっと遊んでいたい。もっと精霊たちと戯れていたい。もしかして、ルッツやカスバ、ミーザンが戦いを楽しむのは、こういうことなのか?
いや、たぶんちがうだろう。シフルは自分ですぐに答えを出した。そうだとしたら、性急に結果を出そうとなどしないはずだ。結果を急ぐということは、彼らが彼ら以外のものに支配されて試合していることを意味している。すなわち、カスバやミーザンは慈善園に、ひいてはラージャスタン皇帝に。それなら、ルッツは?
何にしても、
「《だめだ》!」
シフルは思ったことを口にする。「《そんなに急ぐことないだろ》!」
「《いや、急ぐよ》」
と、ミーザン。「《ぼくたちは、一瞬一瞬に求められる成果を出せなければ『役立たず』なんだ》」
《遊んでいる暇はないんだよ》と、このうえなく実感をこめて言われたとき、ミーザンの指先が赤く光りだす。来るのは火(サライ)だ。しかし、そうだとしても、おそらくは五級精霊までしか召喚できないシフルには、太刀打ちできない階級にちがいなかった。
ただし、ラーガ抜きには、の話。なら、ラーガを呼ぶか? 遊びを長引かせるためだけに、時姫(ときのひめ)の協力をあおぐ?
さすがにそれは考えられない。シフルの目の前で、ミーザンの指先からほとばしる高温の炎が、大きくふくらんでいく。試しに水(アイン)を召喚し、ふくらみつつある火(サライ)にぶつけてみたが、ジュッ、という音とともに呑まれてしまった。この期に及んでも、かけ声なしに水(アイン)を召喚できたことがうれしかったが、まちがいなく、万事窮す、だ。
「《覚悟はいい?》」
ミーザンは笑っていない。「《約束も、いちおう覚えてるよね》」
いま目の前にあるのは、中庭の中央を占める巨大な炎のかたまりだった。気づけば、他の試合はみな片がついたらしく、園児も他の留学メンバーも炎を避け、建物の壁にはりつくようにして最後の試合を見物している。
巨大な炎のはぜる音と、自分の呼吸する音のほかは、何も聞こえない。この場所にいるすべての精霊が、ミーザンの召喚した炎に吸いこまれてしまったかのようだ。
——《あなたが負けたらあなたの命をもらう。ぼくが負けたらぼくの命をあげる》。
(なんつー熱さ、大きさだよ……)
ふくらみゆく炎に圧倒されながら、シフルはなすすべもなく剣を握りしめる。
「《炎よ、行け》」
ミーザンは命じた。「《彼を炎に閉ざせ。ただし、彼を傷つけてはいけない。殺してもいけない》」
なるほど、と呑気にも学習した少年の頭上で、大いなる炎はその両腕をひろげ、少年めがけて突進してくる。約束が脅し程度のものとわかってはいても、身構えずにはいられない。
今にも炎に呑みこまれようとしたとき、
「——!」
圧迫感に耐えられず、少年は思わず、自ら炎のなかに飛びこんでいた。
かたく目を閉じ、持っていた剣を全身全霊で振り下ろす。
しばし時が止まったようだった。
少年は剣を振り下ろしたかっこうのまま、かたまっていた。しかし、ややあって、自分が気絶してもいなければ、炎の熱さにくるまれてもいないことに気づいた。
おそるおそる、目を開く。とたんに、頭の上から熱が降ってきた。息を吸うと、熱い空気が喉に入ってきて、咳きこみそうになる。けれど、不思議と炎はシフルを攻撃してこない。
「《どういう……こと?》」
愕然とするミーザンが、炎のむこうに見えた。
「!」
シフルは息を呑んだ。
正確には、ミーザンは炎のむこうにいたのではなかった。炎の壁にぽっかりと穴があき、そのなかにミーザンの姿がある。
いや、そうではない。改めて周囲を見まわすと、赤い炎の壁は、まっすぐな線で上と下とに分かれていた。その裂け目から、ミーザンが見える。
そして、シフルは知らず、剣をミーザンの首に突きつけていたのだ。
「《あなたは、炎を切ったの?》」
「……、」
訊かれてシフルは、自分の手が握りしめているものを見やる。磨き抜かれた諸刃の剣。シフルは今、確かに巨大な炎を斬りつけた。
「《あなたは、精霊の力を、剣で切れるの?》」
「え……?」
鋭いまなざしと声に、シフルはしどろもどろになる。しかし、せっかくなので、切っ先はミーザンの首をとらえたままにしておく。
「……《どうだろ》?」
「《——どうだろ?》」
いらだたしげに反復し、ミーザンは詰め寄ってきた。
「ちょっ、危ない! 《危ない》!」
シフルが剣を突きつけていることも忘れたかのようなミーザンに、シフルのほうが退いた。ミーザンは自分が召喚した炎の壁に行く手を阻まれたが、彼が軽く炎に触れると、赤い壁はすうと消えていった。シフルとミーザンを隔てていた精霊の力は、元どおり周囲の空気のなかに溶けこんだ。
「《どうだろ、って何だよ。自分の力でしょ?》」
立ちはだかるものもなくなり、ミーザンは噛みつかんばかりに言いつのった。
「《だけど、本当にわかんないんだよ》」
ミーザンがケガをしないよう切っ先に気をつけながら、シフルは答える。「《たまたま剣を振っただけで。まさか効くなんて思ってなかったし》」
「《そう。剣かどうかは、そんなに重要じゃない》」
近づいてきて、口を挿んだのは、セージだった。「《おそらく、単に手を振るだけでもよかった》」
「《そうなのか》?」
わけがわからず、心から問いかけるシフルに、セージはうなずいてみせる。
「《そのとおりです》」
彼女の言葉を、ヴァルーが引き継いだ。「《この場合、道具は重要ではありません。よく見ていればわかったことです。ミーザン君、どんな予想外の事象が起きようと、冷静に目の前の出来事を見なければいけない。特に戦闘においては》」
「《……申しわけありません》」
ミーザンは沈痛な面持ちで言った。
「《しかし、ミーザン君もよくがんばりました。ダナン君のこれほどの特性を、初めての対戦で見通すことができれば、アグラ宮殿で十人の使い手になることもできるでしょう。この調子でがんばってください》」
「《はい》」
ミーザンは静かに、けれど力強く返事する。
彼の返事を受けて、ヴァルーがシフルに目配せしてくる。シフルははっとして、ミーザンの首に突きつけたままの剣を下げた。
試合は、終わったのだ。
「《それで、いったい何が起こったんでしょうか。先生》」
ミーザンは教師に尋ねる。
「《避けたんです》」
ヴァルーは言った。「《ミーザン君の呼んだ炎が、ダナン君を避けたんです》」
「《なんですって》」
「《ダナン君は炎に愛される者だと、報告は受けています》」
そうつぶやき、ヴァルーは思案顔になる。「《しかし——これほどまでとは》」
慈善園の生徒たちのあいだに、ざわめきが起こる。
(火(サライ)が)
シフルは、この言葉を噛み砕くのに、少し時間がかかった。(火(サライ)がオレをよけた? あの強大な火(サライ)が? オレなんかを?)
気づけば、セージがすぐそばにいて、微笑んでいた。
「セージ……」
剣を鞘におさめて、ためらいがちに声をかけると、
「シフル、初勝利おめでとう」
(初勝利……、そうか)
——オレ、ミーザンに勝ったんだ。
ようやくシフルはその事実を理解した。じわりじわりと、からだの奥底から、喜びが迫りあがってくる。
試合中は勝ち負けなどどうでもよく、精霊と遊んでいられさえすればそれでよかった。けれどやはり、勝ちはうれしかった。
(オレは、ここでもやっていける)
シフルは剣を持ったままの手を、じっと見た。(ここでも、オレは自由に、もっと自由に、何だってできる)
「……いっ」
次の瞬間、シフルは思わず雄叫びをあげる。「いよっしゃあー!」
ラージャ語のざわめきのなか、少年の現代プリエスカ語が響きわたった。
敗者となった少年の昏いまなざしに、少年はまったく気づいていなかった。
To be continued.