精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第12話「祝祭前夜」(4)
その後は特に問題もなく、日々は過ぎていった。
儀式に使う黒袴の制作は着々と進み、休戦記念日の予行練習が行われる前日、とうとうタマラの許しが出て、シフルの作業も完了となった。
メアニーの話していた針子女官の作にはとても敵わないが、ちゃんと着ることのできる黒袴だ。十分な成果に、あの襲撃事件以来補習に同行していたセージと、シフルとラーガとタマラ、四人しかいない教室で、少年は歓声をあげた。タマラは拍手で祝福してくれ、セージも——もちろん彼女は補習は必要ないので、文机に座って本を読んでいた——一緒になって手を叩いてくれた。ラーガはいつものように、興味もないといった表情でその場に浮かんでいた。
翌日、意気揚々と予行練習に参加したシフルは、浮かれ気分で慈善園の中庭に整列した。しかし、そこで儀式の説明を受けて、浮かれている場合ではないことが判明した。
「《休戦記念日の儀式は、当日の早朝から翌日の早朝、ほぼ丸一日かけて行います》」
と、タマラは告げたのだ。
「《丸一日ぃ》?」
思わず、シフルはその場で反応する。
「《何すか、その苦行》!」
メイシュナーも、少年に続いた。
「《苦しいお勤めであることはまちがいありません。でも、意味のあることですから、粛々と勤めなければなりませんよ》」
「《ラージャスタンが征服してきたすべての国々の宗教的建造物にお参りするという話でしたが、規定どおりすべてにお参りすれば、どうしてもそれだけの時間がかかるということですか》」
「《そのとおりです》」
セージの質問に、タマラはうなずいた。「《もちろん、略式の儀式もあり、一般国民はそちらの儀式ですませます。ですが、我々はアグラ宮殿を挙げて行う儀式に参加するのですから、簡略化などありえません。心して勤めあげなければいけませんよ》」
「《はー》……」
袴づくりに気をとられて、こんな大変な行事だとは、さらさら考えていなかった。黒袴完成の喜びも束の間、儀式当日の苦労を思うと滅入ってくるが、もちろん異文化体験としては楽しみではある。シフルは期待と不安がないまぜになった気持ちで、中庭のなかを行進していた。儀式では、休憩を除いてほぼ一日じゅう行進するらしい。
手には、杖を持つ。飾り気のないトネリコ材の、要するにただの棒である。この棒で、タマラの号令に合わせ、ドン、ドン、とリズミカルに地面を叩いて歩くのである。これは眠る死霊を呼び起こすという意味があるのだと、タマラは解説した——この時点で、確かに四大元素精霊以外の要素が混じっていることは明らかだった。元素精霊教会では、人は死後、死霊などにはならない。その人自身の核、精霊となって、万象のなかへ溶けこんでいく。
それにしても、
(こりゃあ、そうとうキビしいぞ……)
と、周囲の生徒たちに合わせて地面を突きつつ思う。
今は短時間の練習だから何ということはないが、延々と歩きながら、地面を突きながら、各宗教的建造物にお参りするとなると、まず移動に体力を奪われ、次にひとつひとつの儀式に体力を奪われる。それが長時間にわたるならなおのこと。勉強で徹夜するなら机にかじりついていればいいが、ひと晩じゅう運動を継続した経験は過去にない。そもそも勉強を中心に生きてきたシフルには、そこまでからだを動かしつづけた経験もなく、不安しかなかった。
「《さあ、みなさん、もっと心をこめて》」
タマラが生徒たちを叱咤した。「《祖先である死霊への感謝とともに、地面を叩くのですよ》」
「《はい、先生!》」
こんなときも、慈善園の生徒たちの唱和する声は力強い。
ラージャスタンで迎える初めての休戦記念日は、長い一日になりそうだった。
午前中は慈善園で勉強のかたわら儀式の準備を進め、午後はキナリーからさまざまな歴史の説明を受ける、という日々が続いた。合間を見て、ムリーラン宮書庫にマーリを呼びだし、話をしたり、文献のラージャ語読解——たいていは古文であり、会話が差し支えなく使えても追いつかない——に、助言をもらったりした。
当初、マーリを書庫に呼んだのは、ラージャスタン人と話をしたいという目的とともに、書庫の蔵書について教えてもらいたかったからだが、それには及ばなかった。というのは、書庫で文献に目を通す時間はそう多くはとれないのに、資料のラージャ語を読むのはかなり骨の折れる作業だったからである。
シフルは初日にマーリに教えてもらった一冊の資料を、少しずつ読んでいった。が、結局、休戦記念日の前に読み通すことはできなかった。セージのほうも、どちらかというとマーリと話をするほうに比重をおいており、彼女にしてはあまり読み進められなかったようだ。
とりあえず、シフルは数日のうちに、いちばん気になっていたことについては、ひとつの結論を得ることができた。
言い換えれば、それ以外のことは、何ひとつ資料の山の中から見いだすことができなかった。
少年も、つきあいで書庫にいた少女も、何ひとつ知識を意味のあるものにすることができないまま——
——運命の休戦記念日がやってきた。
* * *
夜中にドアを激しくノックする音で、ユリスは目を覚ました。
室内は見るからに暗く、どうみても夜明けは遠いだろう時間帯で、すぐに睡魔に負けたユリスは、さっさと眠りに戻った。ところが、ノックは続いている。妙にあきらめが悪く、何度も何度も叩きつづけていた。
「ペレドゥイ」
ルームメイトの少年が、肩を揺さぶってくる。
「何だよ」
「おまえを呼んでる」
なんとか目を開けて起きだすと、ノックの音とともに「ユリシーズ・ペレドゥイ、出てこい」と小声で言っているのがわかった。仕方ねーな、誰だよ、とぶつぶつぼやきながら、ユリスは重い足どりでドアに向かう。眠気のあまり、相手が誰なのか確認することなくドアを開けた。
夜間で非常灯だけが点灯している廊下の、ごく弱い明かりが目に入った瞬間、ユリスは胸ぐらをつかまれ、強い力で引っぱりだされた。迫ってきたのは、男子学生の顔。
「アマンダはどこだ?」
「……は?」
さすがに目が覚め、目の前の学生の顔を見た。薄暗がりではっきりとは見えなかったが、よく見知った顔ではない。Aクラス生ではないのだろう。
「おまえの部屋にいるんじゃないのか? え?」
「へあ?」
寝起きの頭が、男の高揚についていけない。ぼんやりしていると、男は舌打ちしてユリスを乱暴に突き飛ばし、ドアを開けて部屋に踏みこんでいった。
「うおッ?」
ブランケットを剥がれ、ルームメイトが声をあげる。
「ちがう! アマンダじゃない」
「アマンダがこんな時間にこんなとこいるわけないだろ? いつ俺がアマンダとつきあったんだよ」
言っていてちょっとさみしくなったが、事実そうなのだからしょうがない。このごろアマンダとはまったく会っていない。会っていないどころか、とうとう姿も見かけなくなった。実は、ここ一週間ほどあまりにも姿を見ないので——情けない話だが、やはり休み時間や図書館などで無意識に彼女の姿を探してしまう、声をかけられるわけでもないのに——、密かに彼女を心配しており、心配するのも思いあがりだろうか、などと思ったりしていたユリスである。
「だいたい、誰だよ、おまえ? いきなり来てこれはないだろ」
「明かりをつけろ。部屋のなか全部見せてもらう」
「見ればいやでも納得するだろうな」
ユリスは部屋の明かりをつけた。そこにいたのは、どこかで見たような金髪で長身の、ちょっとした色男。
「あ」
(アマンダの元彼……いや、元鞘に戻ったわけだから今彼か)
名前は確かアレックスといったはずだ。カンニングの疑いをかけられて停学になっていた、復学後アマンダと寄りを戻したがり、彼女の「秘密」を盾にそれを獲得した男。ユリスにとっては恋敵になるわけだが、そう言い切れるだけの自信はもちろんない。
ルームメイトの少年も、さっさとすませろよ、と言いながら、寝床から出てきた。アレックスは部屋中をひっくり返した。クローゼットやシャワールームはもちろん、窓まで開け放って外壁を確かめていた。アマンダがそんなところに張りついているはずがなかったが、興奮状態の男にそんな判断能力はなさそうだったので、黙って見ていた。
「気がすんだか?」
「……悪かったな。邪魔した」
だんだん冷静になってきたのか、アレックスは申しわけなさそうに謝る。意外と素直なところもあるらしい。ひどく失望した様子の彼を見て、ユリスは同情心を起こした。
「アマンダに何かあったのか?」
訊くと、ルームメイトがドアを指さしたので、二人は薄暗い廊下に出た。
「帰ってこない」
「は?」
廊下に、ユリスの声が響きわたった。
二人は、Dクラス棟のアレックスの部屋に向かった。部屋には、確かな女の子の痕跡があった。本来、Dクラス棟は八人ひと部屋であり、男子部屋に女の子を泊められるはずもないのだが、おそらく学生同士の何らかのやりとりを経て、そういうことになっているのだろう——理学院に長くいれば、そんな噂のひとつやふたつは聞く。そこここに女の子のものらしい日用品が散らばっており、彼女が日常的にこの部屋で生活しているらしいことがわかった。
「朝、授業だから出ていって……夜にまたこっちに帰ってくるって言ってたのに来ない」
「ふーん」
ユリスは心底白けながら相槌を打つ。自慢か、この金髪野郎。「それで?」
「わからない。何も言ってなかったし、別におかしな感じもしなかった。だから……Aクラスのとき仲よくしてたっていうアンタのところに行ってるのかと思ったんだよ」
「アマンダの部屋にはもう行ったんだろ? 同室の子たちは何て?」
「部屋にも戻ってないし、今日は授業にも来てなかったって」
それだけ情報を集めておいて、なおも他の男の部屋にいると考えるあたり、この男の思考能力も末期だとユリスは思った。が、次に頭に浮かんできた思いつきに、ユリスは自分もやはりこの男と同じ、アマンダに対して末期的なのだと、つくづく思い知った。
「まだ通報はしてないんだな」
「通報、しなきゃやばいか……」
アレックスは言葉を濁した。おそらく、彼がアマンダのことを案じているのは本当なのだろうが、彼とアマンダの関係は多くの学生が知るところであり、その行方について責任を問われる可能性を恐れているのだろう。以前なら、ユリスもきっとそれを恐れた気がする。しかし今、《ワルツの夕べ》の日に軽々とアマンダをさらっていったこの色男が、こうしてなすすべもなくうろたえているということに、ユリスは勇気を得た。
「とりあえず、明日一日待って、帰ってこなかったら通報だな。あんたもいろいろ事情はあるんだろうけど、しょうがない」
でも、通報の前にやることがある、とユリスは強く言った。
「?」
「もし、本当にアマンダが失踪したんだとしたら——いなくなった理由が知りたい。あんたもそう思わないか?」
判断力低下中のアレックスを押し切るのは、いとも簡単だった。
翌日、思ったとおり、アマンダは自分の部屋にもアレックスの部屋にも姿を現さなかった。そこで後日、ユリスは自習時間を利用して、アレックスとともにBクラス寮を訪れた。幸いAクラスには自習時間が山ほどあり、アレックスのDクラスも自習時間でかつBクラスの授業はちゃんと行われている、そんな機会は、そこまで待たなくとも巡ってきた。
アレックスは、やはりというか、アマンダの女子部屋の合い鍵を所持していた。これといって仲よくもない男子学生二人は、人目を気にしながら女子部屋の区画に入りこみ、アマンダの部屋のドアを開けた。
「俺は机を見るから、そっち頼む」
「わかった」
一応自分より親しい立場にあるアレックスに、クローゼットなどはまかせて、ユリスはアマンダの学習机の前に立った。
これが、好きな女の子がいつも勉強していた机。変に高揚するものがあったが、すでに彼女の行方不明を聞かされて数日、いまだにみつかっていないとなると、いろいろな意味でいつまでも浸ってはいられない。
(アマンダ……、いったいどこに?)
ユリスには、まるで見当がつかなかった。自殺している可能性があるかどうかさえ。彼女はきっとそこまで苦悩はしていない、だなんて、自分には言い切ることができない。アマンダのことは何も知らない。ただアマンダの外見のかわいらしさに憧れるばかりで、彼女が実際にどんな女の子なのかなんて、そばにいるときは考えもしなかった。
(だから、俺じゃダメだったのかな)
ユリスは引き出しを開けた。アマンダの几帳面な字で書かれたレポートやノートの類いが次々に出てきたが、彼女の行方に関わりがありそうな、個人的な書類はなかった。あくまでもまじめに勉強している学生の机であって、それ以上ではなかった。
「あっ」
ふいに、アレックスが声をあげた。
「え、何……って、どこ開けてんだよ!」
アレックスが開けていたのは、衣装箪笥の引き出しだった。しかも、明らかに女子部屋最大の危険物——下着がぎっしりつまっている段だ。しかし、アレックスは当然のごとく見慣れているようで、下着のことはまったく頓着していなかった。
「あいつ、下着の中に本、隠してやがる。しかも貴重書。売るつもりだったのか、アマンダ。そういうことはしないって、いつもえらそうに言ってたくせに、あの女」
「! 見せて」
アレックスの不穏な発言は無視し、ユリスは彼が引っぱりだした本の表紙を見た。
その表題は、
——『精霊王に関する考察』。
(やっぱり、アマンダが持ってたんだ……)
学院に通報する前に、ユリスは図書館に立ち寄った。
Bクラスの貸出カード入れから、アマンダのものをとりだす。次いで、現在在学していない学生のカード入れから、シフルとセージのカードも出した。
アマンダは、シフルとセージが借りたことのある本を、かたっぱしから借りていた。シフルのカードに書かれた本をひととおり借り、そのあとでセージのほうもひととおりあと追いしている。二人のカードに書かれている本は、ほぼすべて、アマンダのカードにも記録されていた。アマンダのカードに足りないのは、『精霊王に関する考察』の四冊だけ。
いま、四冊の本は、ユリスの部屋にあった。今度は、ユリスの部屋の衣装箪笥の奥に眠っている。
全貌の見えない謎を、抱いたままで。
To be continued.