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​メテオ・ガーデン

04. 変わりゆく世界<2>

 樹上城での暮らしは、まるで夢のようだった。ティンダルでの不自由な日々に夢みていた場所が、ここメサウィラの本拠地にはあった。

 なぜ戦わないのかと殴られ、戦わない者に価値はないと軽んじられ、寝屋ではからだを伸ばすこともできない隅へと追いやられながら、戦わずとも侮蔑されることのない場所へ行きたいと夢みつづけた。謡い家のような場所で生きていたいと願った。

 それが今、思ってもみなかったかたちで実現していた。ザイウス・パンタグリュエルと妹セレステがエンジュに与えた生活は、何不自由ないものだった。エンジュはただ、からだをいとってさえいればよかった。

 ちゃんと食べ、ちゃんと眠りさえすれば、他に何も要求されなかった。かつて望んだとおり、歌って暮らすことも可能だった。とはいえ、ティンダルの歌をうたうことは、ザイウスの手前できなかったが。

 樹上城にきて数日間、エンジュはからだを休めることに専念していた。〈草の海〉のさなかで長年暮らしてきたエンジュは、もともと〈毒の水脈〉の毒に耐性があったのだろう。ザイウスたち兄妹にはじめて会ったときの、頭もからだもしびれているような状態は長くつづかず、数日後にはパンタグリュエル邸の中を歩きまわれるようになった。

 ザイウスは、エンジュの行動を制限しなかった。落下の危険のある窓に近づくことは禁じたものの、好きにすごすようにとザイウスは言った。真意ははかりかねたが、制限が少ないのはありがたかった。〈草の海〉のさなかで生きていたエンジュにとって、樹上城は不思議のかたまりだ。どうやって木の上、木の中に城をつくるのか。人々はそこでどう生活しているのか。長年ティンダルの集落と荒野の戦場しか知らなかったエンジュには、パンタグリュエル邸内だけでも興味をそそられた。

 その日、エンジュは朝餉を終えて客室を出た。廊下は人ふたりがようやくすれちがえる横幅で、客室内と同様、床も壁も大樹の一部だった。表面は素足で歩いてもいいようにすべらかに削ってあったが、触れればティンダルの集落そばにあった大樹と同じ息吹を感じられた。ひんやりとして、しかもあたたかな感触は、長い年月を生きた木に特有のもの。あの木を愛していたエンジュにとっては、懐かしくもあった。

 それにしても、なんて丁寧につくられた家だろう、とエンジュは思う。こんなになめらかな建材は、ティンダルにはなかった。ティンダルの天幕は、何かあればすぐ移動できる即席のもの。床はもちろん地面に直接革を敷き、柱も伐りだして簡単に枝を切り落としただけで、こんな宝石のように磨かれた床と壁はない。

 樹上城は移動しないから? ここまで敵がくるとは考えていないから? 多くの人々が住まうこの途方もない大樹を、大切にしているから? いずれにせよ、これほどの技術をもつ国の巨大さに、エンジュは気が遠くなった。アルバ・サイフによる最強の名など、この国のまえには卑小だった。

 でも、そんなとるに足りない集落を、メサウィラは滅ぼした。はるばる夜の〈草の海〉を越えてきて、ひと粒の砂も残さないというように、完膚なきまで。

 ——〈星々の庭の歌〉。

 何があるというのか。

 スエンたち謡い家の人々が長いあいだ受け継いできて、今はエンジュひとりしか知らない、あの歌に。

 大トカゲが、エンジュをつついた。うん、と答えた少女に、くつわを見せてくる。

「こんなに狭くちゃ乗れないよ」

 パンタグリュエル家の廊下は狭い。そもそも、いくら体をきれいにしてもらったからといって、トカゲが家の中を走りまわっていいわけがない。が、ルルはエンジュが手綱をとらなければ気がすまないという様子で、執拗にくつわを押しつけてくる。

 あまりにうながしてくるので、エンジュはつい手綱を持ちあげた。背中に腰を下ろすと、ルルは首だけでエンジュをみて、うなずいた。すぐ立ちあがるつもりだったエンジュだが、やはりというべきか、ルルは歩きだした。

 狭い廊下のなかで、器用に巨体をくねらせながら、ルルは進んでいく。しかもけっこうすばやい。力強い足どりで、しっかと床をつかんで前進する。このところ寝てばかりで筋力がなまっていたエンジュは、下半身の力と手綱だけでルルの上に乗っていることができず、ルルの首にしがみついた。それを待っていたといわんばかり、ルルは加速する。

「ルル! 危ない」

 言ったが、いつもエンジュのいうことを聞くルルではない。

「だめ、ルル!」

 エンジュは力の限り叫んだ。叫ぶ気力もまだ戻りきっておらず、自分で思うより声が出なかった。

「どうした?」

 ザイウスが居室から顔を出す。

「どいてください、ザイウス! ルルが」

「いま助ける」

 ザイウスは狭い中で走りだそうとした。が、ザイウスでは大柄すぎて、この木の中の廊下では思うぞんぶん動けそうにない。

「いえ、だめ! どいてください」

 ルルはザイウスを振り切るように、エンジュの客室に駆けこんでいく。

「そっちは行き止まり——」

 というより、窓だった。エンジュは蒼白になった。ザイウスはルルの尻尾をとらえようと跳んだが、迫る壁で側頭部を打ちつけていた。

「ザイウス! やめて、ルル!」

 大トカゲは、窓から身を躍らせた。

 悲鳴も出なかった。眼下には遠くメサウィラの街並がみえる。日干しレンガを積んでつくられた小さな家屋の群れが、まるで麦粒のようだった。大きな風のかたまりの中に飛びこんでいく、圧力。背後にザイウスが名前を叫ぶ声が聞こえた。

 ふたりは飛んでいた。厚い風の層を切り裂きながら。ただし、それは一瞬だった。

 気づいたとき、ルルは着地していた——どこへ? 地上はまだ遠い。樹上城は巨大だ。ルルが足をついたのは、樹上城の幹、つまり壁。ルルは垂直に落ちていく姿勢のまま、壁にとりついた。エンジュはといえば、足ではなく頭を地面にむけている状態だった。

 頭に血がのぼる、などといっている暇はない。ルルは半ば落ちるように、壁を駆け抜けていく。ときおり、まだるっこしくなるのか、爪を幹から引きはがしては飛んだ。

 あっというまに地上が迫った。樹上城の根もと、地上から——エンジュにとっては頭上なのだが——悲鳴が起こった。危ない、人だ、トカゲだ、とあわてふためく人々の中へ、大トカゲと少女とは降り立つ。

 人々は、突如として樹上城から降ってきた大トカゲと少女に目を吸い寄せられ、まるきり動作を止めていた。少女は重力に対して正常な角度になったことに気づくと、トカゲの首を放し、勢いよく立ちあがる。ルルのほうは悠然としたもので、ゆっくりと歩きだす。人だかりがふたりのために道をあけた。あたうる限りの平常心で物陰に入ると、エンジュたちのいなくなった樹上城の根もと、広場のような空間は、もとの活気を取り戻した。

 エンジュはようやく人心地ついた。今しがた降りてきた大樹を見あげれば、その頂きはどうみても雲より高かった——といっても、今日は晴れ渡って雲ひとつなかったのだが。はるばる遠く大樹の頂上まで、くっきりと見える。パンタグリュエル邸はどのあたりだろう。樹上からは、地上の家々が麦粒でしかなかったように、パンタグリュエル邸の窓がいったいどこにあったのか、地上からはまったくわからない。

 ふと、聞き覚えのある音がきこえた気がして、エンジュは視線を広場に戻した。そこにはまた人だかりができていた。

 人垣のむこうから、太鼓の音が聞こえる。

 

 

​To be continued.

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