メテオ・ガーデン
04. 変わりゆく世界<3>
——ティンダルの太鼓?
ティンダルに生まれた者であれば、誰もがその音色を刷りこまれて育つ、高揚と狂乱の合図。
人だかりをかき分け、最前列に出た。そこには太鼓が据えられ、男が手を巧みにしならせて打ち鳴らしていた。よく見ようと前に踏みだした少女のまえに、女が横切った。次いで男が、女と入れ替わるように飛びだした。打ち手が一人、舞い手が二人。
知っている顔はない。しかし、太鼓の音と男女が行き交うこの踊りは、まちがいなくティンダルの〈馬の踊り〉だった。戦勝の宴において、戦士たちが乱れ舞う踊り。あのときエンジュはそこから離れて、暗がりの中からだを縮こまらせていた。
見知らぬ男と女は、腕を胸の位置に固定した状態で、足を振りあげる。馬の行進を模した動きで、太鼓の音色とともに場を駆けめぐる——いや、駆けめぐる、という言葉にはふさわしくない。この目の前の男と女は、明らかに訓練が足りていなかった。足も充分に上がっていないし、大地を踏み鳴らす力強さもない。それはティンダルでは踊れていないことで、強制的に踊りの輪から追放される。客観的に自分がわかっていないということであり、〈ティンダルの馬〉として恥ずべき行為だった。
彼らはティンダルではない。太鼓の足もとに、銅貨の山が築かれている。見せ物として舞う踊り手が、足を踏み鳴らしている。見れば女も男も、踵のかたい靴をはいて、舗装された広場に打ちつけることで音をたてていた。カツカツカツと似て否なる音をたて、女は必要以上に布を減らした衣装で、見物人の男たちを煽っている。
彼らはティンダルなど知りもしない。
——わたしはティンダル。……
なぜ、今になって理解してしまうのだろう。すべてが失われたあとになって。
エンジュは踊る二人のまえに進み出た。いぶかしげに見た舞い手の女の腕をとり、少女は言う。
「かわって」
少女は裾をたくしあげ、足をさらけだす。エンジュをメサウィラ貴族の娘だと思っていただろう観衆はどよめき、あるいははやしたて、婦人たちは呆れて嘆息をもらした。戸惑う太鼓の打ち手は手をとめた。
エンジュは足で、二、三度、地面を打ってみた。パンタグリュエル家の妹が貸してくれたメサウィラ貴族の室内履きは、やわらかい布でできている。ティンダルの刃で地面を蹴るときのような、かたい音など鳴りはしない。
(滑稽だな)
エンジュは小さく笑って、太鼓の打ち手に手でうながす。
「つづけて」
打ち手はためらいつつも、ふたたび太鼓を鳴らす。男の踊り子は突然の闖入者の存在をおもしろがるふうで、場所をとられた女はお手並み拝見とばかり見物しはじめる。
踊りを中断させてしまったことに気づき、エンジュはしまったと思う。ティンダルでは、宴を始める際に声をかけたりしない。誰からともなく太鼓を打ち鳴らし、それに誘われて集まった戦士たちが、次から次へと踊りに飛びこんでくる。自然と舞いの輪が発生し、「戦い」が始まる。踊りが加速していくにつれ参加者が増えていき、やがて減っていく。最後に立っていた者が勝者となる。
エンジュは胸の位置に腕をもちあげた。そして、足を勢いよく振りあげる。
太鼓の拍子に合わせて、足をすばやく動かす。馬の足並のように。力強く。
耳の奥できこえるのは、アルバ・サイフの音。カツカツ、カツカツカツカツ、と、踏み固められた大地を細かに刻んでいく。
少し遅れて足を動かしはじめるのは、ティンダルの十六歳の男一の戦士。ふたりは向かいあい、同じ姿勢で、相手よりも高く足を蹴りあげようと競う。
(フリッツ)
一度も、一緒に踊ることができなかった。
今ともに舞うのは、見知らぬ踊り子の男。男は舞を心から愛しているのだろう、闖入者のエンジュを舞の相方として歓迎した。
女の踊り子がエンジュの肩を引く。
「あたしの靴を使いな」
女が脱いでよこした靴に、エンジュは足を通す。踵のかたい靴は、はきなれない感触がしたが、布の靴よりはましだった。軽く地面を蹴ると、コツコツとそれらしい音がする。
「ありがとう。ほんとうは、アルバ・サイフがあるといいんだけど」
「あんた——」
女に感謝の意を表し、太鼓の音のなかへ舞い戻っていく。
そこで、男が待っていた。待っていたといっても、これは「戦い」だ。手をさしのべ、引いてくれるわけではなく、相方の参加を待って男は加速する。先に行こうとする。
エンジュはそこに飛びこみ、男と拍子を共有する。コツ、コツ、コツコツコツ、と、舗装された地面が鳴る。
(まだ遅い)
「太鼓、もっとはやく」
「もっとはやくだ、ガイ!」
エンジュの指示に、相方の男が賛同する。名前を呼ばれた太鼓の打ち手が、一段階、加速させた。それに合わせて、二人の脚が地面を蹴りつける。
(マリオンとフリッツは、もっとはやかった)
「もっと」
「もっとだとよ!」
目の前に、波打つ金色の髪がちらつく。〈草の海〉の夜、暗闇のなかで松明の光を浴びて躍動する、獅子と呼ばれた髪とそのしなやかな肉体。飛び散る汗の滴は、名誉のラピスラズリにもまして価値があった。
とてつもない速度で踏み鳴らされる両脚についていける者は、誰もいなかった。誰も。
まさに〈草の海〉を駆ける馬のように。女と男は跳び、疾駆する。
「もっと」
「まじか」
太鼓の打ち手はまた躊躇する。
「やれ!」
叫んだのは、観衆の一人だった。
「やれ!」
「もっとはやく!」
「——もっとはやく。もっと遠くへ」
静かなつぶやきを落としつつも、少女のからだは拍子の渦のなかで戦いつづけている。観衆は歓声をあげ、太鼓の打ち手は頭を抱え、相方の男はにっと口角をあげた。
「知らんからな!」
太鼓の拍子が一気に高まった。エンジュと男は、高速の拍子のなかへと飛びこんでいく。
男がその場所にたどりついたのは、そんなときだった。ザイウス・パンタグリュエル。四人の私兵をともなっていた。
マリオン王女の進言により、結婚の祝宴に酔いつぶれた傭兵村を壊滅させた惨めな遠征——その帰途、トカゲの首にしがみついたまま気絶している娘を発見した。服装と、手足に装着した特殊な武具から、ひとめで傭兵村の生き残りだとわかった。
帝王アルキスからの指示は、一人残らず殺せ、だった。帝王の求める〈鍵〉が発見された以上は、それを受け継いでいた危険な小集団、ましてや〈草の海〉で恐れられるアルバ・サイフの使い手でもある彼らを生かしておくわけにはいかない。それは理解していたが、このうえ一人たりとも殺したくないというのがザイウスや部下たちの偽らざる思いだった。
娘とともにいた大トカゲの知性は驚嘆すべきものだった。ザイウスたちが自分たちを捕獲しようとしているのに気づくと、力強い足どりで疾走しはじめた。トカゲは確かにすばやいが、大人ひとりを乗せられる巨大トカゲが、これほど俊敏に動けるとは思わなかった。
結局、指揮官数名の駿馬と槍を駆使してトカゲを捕らえたが、最後にはトカゲが少女を振り落としてしまったため、その隙をつくことができた。おまえのあるじを助けるからと言い聞かせると、不思議と大人しくなって、ようやく少女をこちらにまかせてくれた。
トカゲから馬の背に移した少女は痛々しかった。明らかに返り血と思われる血痕は、彼女がメサウィラ兵に抵抗したことを意味していた。そのうえ、ティンダルの逗留地からメサウィラのある〈恵まれた中洲〉に至るまで、地面すれすれに引きずられてきたために、返り血以外にも細かい傷と泥にまみれていた。
何より、その手足のアルバ・サイフ——メサウィラの技術力をもってしてもつくりだすことのできない、ティンダルが〈草の海〉における最強集団の名をほしいままにしているゆえんとなった武器。それは、ザイウスのような男から見れば、少女を恐ろしく見せるより、却ってそのか弱さを際立たせた。
彼女は意識がなかったので、四つのバングルを外すのは容易だった。パンタグリュエル邸に連れ帰り、セレステの見ているまえでバングルを外すと、妹は悲鳴をあげた。彼女の手足が妹同様に細かったことと——もちろんメサウィラ貴族の娘たちよりはずっと鍛えられていたが——、バングルの下にくっきりと痣が残っていたからだ。
「どうしてティンダルは、女の子にこんなことをさせるの? 彼女は奴隷?」
セレステは目に涙を浮かべながら、兄に訴えた。手は、眠りつづける少女の手首をやさしくさすりつづけた。
「ティンダルの戦士は奴隷ではない。むしろ、戦士になった奴隷に同じ身分を与えると聞く」
でもひどい、と言いつづける妹のかたわらで、〈ティンダルの馬〉が駆けめぐる戦場を想起した。意識がないところを近くでみれば、これほどに弱々しいものかと思った。何度出会っても、少年少女から青年層にかけてを中心とする〈ティンダルの馬〉たちは、若く美しく俊敏だ。あの刃と糸が飛び交う戦場では、誰もが死を覚悟する。
しかし、妹の憐れみを一身に受けて眠る少女に、そのおもかげはなかった。
——ただの娘として生きなさい。
目覚めた彼女に、ザイウスはそう勧めた。
だが、ザイウスはさすがに想像していなかった。あの大トカゲが、大人しくパンタグリュエル邸の暮らしを享受しているようにみえて、逃げだす機会をうかがっていようとは。
けれど、予感はあった。ザイウスは、保管してあった彼女の所持品を携えて出た。
広場の喧噪の中で彼女を発見したとき、大トカゲは人ごみの片隅で彼女を眺めていた。
一方、彼女は人垣の中心にいた。
人々は彼女に釘づけだった。彼女と、そのかたわらにいる男のため、こぞって銅貨を山積みにした。彼女に報酬を渡した者は、心おきなく熱狂した。あたりをはばかることなく鳴り渡る太鼓に、彼女と男の靴音と汗に、その速度と技術、あふれでる力に!
見てはいけないものを見た思いで、ザイウスはめまいがした。
ザイウスが考えていたよりも、はるかに強靱な力で、彼女は地面を叩きつけていた。ドンドンドン、という太鼓の音と、彼女が意思をもって踏み鳴らす、カツカツ、という靴音がないまぜになり、奇妙な昂奮の波動が男を呑みこみつつあった。
——これほど美しい娘だったのか。
それがはっきりと言葉になったとき、同時にザイウスは絶望した。
「ザイウス様?」
人ごみのなか立ち尽くす主人に、パンタグリュエルの私兵たちは戸惑う。
「先に帰ってくれ……」
ザイウスは、大トカゲのそばに行く。
大トカゲは、いま存在に気づいたというふうで、彼を見あげた。みずからの愚かしさに、男は苦笑した。
To be continued.