メテオ・ガーデン
05. 夢の庭にて<1>
彼女は、戦場に静寂を運ぶ。
馬の蹄が大地を砕いて走るのとは異なり、彼女の乗るトカゲは一歩一歩地面をつかむようにして進む。トカゲは身丈が低く、騎馬隊のなかに紛れこまれると埋もれてしまう。が、馬と同じくらい、ときにそれ以上に速く駆けるので、戦場で彼女に遭遇した者は、彼女が唐突にそこに降り立ったようにみえた。
まるで流星のように。
静けさとともに現れた少女の姿に、兵士たちははっと息をのみ、その後、目撃する。敵に対峙した彼女が、トカゲの背を舞台にして——舞うのを。昂ぶりもせず、鬨の声もなく。彼女の手から、足から、きらめく糸が舞う。それは、まるで風に舞う雪華のように。
戦場の雪華がもたらすもの、それは——圧倒的な静寂と、永遠の暗闇。
戦いをかたくなに拒んでいたのが遠い昔のことのように、エンジュには思えた。
それほどに、戦場での挙止は自分になじんでいた。これほど簡単なら、もっと早く踏みだして、少しでもティンダルの大人たちやフリッツを喜ばせればよかった、とも思う。
エンジュは、洗い桶に映る自分をみつめていた。いましがた洗い流した返り血が、水のなかで渦を巻いている。自分自身は傷ひとつない。けれど。
(ひどい顔)
——簡単ね。……
笑い声が、耳の中でこだまする。それから、やさしい男の声も。
——ただの娘として生きなさい。……
エンジュは洗い桶をもって小屋の外に出た。夕暮れの暗闇に、返り血を洗った水を放る。
「エンジュ! こっち」
背後から、男が呼びかけてきた。男はたき火の横にいる。男の名はユーダという。今のエンジュにとっては、仲間といえる一人だった。ユーダは、エンジュにむかって木の杯をさしだす。
「飲めよ、エンジュ。あんたのおかげで商売安泰だ。戦があっても、なくてもな」
「酒はきらい」
ユーダはかまわず、ぶどう酒を注いで押しつけてくる。
「あんたが稼いだんだ。四の五のいわずに飲め」
「待て、いやいや飲むのはもったいない。俺が飲む」
「ガイあんた、エンジュのうしろに引っこんでばかりで、ぜんぜん前出なかったって? こんな細っこい娘を盾にして恥ずかしくないの? それで酒だけ飲もうっての?」
踊り子の女が、肉を串に通してたき火の横にさしながら、口をはさむ。
「俺は戦は苦手なの。俺は太鼓打ち! 俺は死にたくない」
「言いわけして情けないったら。エンジュも何か言ってやんな」
三人の言葉の応酬に、エンジュはほほえむ。
「さすがに余裕だね」
「ガイを守ろうとは思ってない。戦場では目の前の戦いに集中するだけ」
「ありがたいねえ」
踊り子の女リアンはガイを見て舌打ちしたが、そうはいいながら本気で文句をつけているわけではないのは、仲間になって日の浅いエンジュにもわかった。
この芸人一座では、お互いの得手不得手が尊重されていて、それによって役割分担されている。ティンダルのように、何かひとつの価値のために「できるか、できないか」で分けられるようなことはなかった。
芸人一座は、都市から都市へ、街から街へと旅し、各地で仕入れた踊りや歌や音楽、物語を披露して生計をたてている。その一方で、戦争など荒事があって傭兵が徴集されると、一座のうち戦える者は戦いに参加する。命の値段は収入の重要な一部分だった。
そんな生活のさなかに、一座の人々とエンジュは出会った。
あの日、ティンダルの〈馬の踊り〉の演目が選ばれたのは偶然だった。踊りをともにしたエンジュを、一座は自然と迎え入れた。
この一座において、エンジュに求められたのは、踊ることだけだった。エンジュはティンダルの踊り以外知らなかったが、似たような振り付けは他にも存在しており、慣れ親しんだ振り付けの応用ですぐ踊れるものもあった。
「別に正しさなんて求められてない。芸は、見ていておもしろけりゃいいんだ」
「まあたまに、あんたみたいに文句つけてくるやつもいるけどね」
それならそれでおもしろいからな、とユーダは笑う。
そうやって、一座の誰かがおもしろいと感じた相手を、そのときそのときで仲間に迎え入れてきたのだろう。誰が去っても死んでも、また新しい仲間を増やしながら存続してきたのだろう。
一座の人々は、エンジュに踊り子たることを求める一方で、戦士たることは一切求めなかった。傭兵が重要な収入源であれば、ティンダル出身のエンジュにそれを要求するのは当然に思えたが、彼らはそうはしなかった。彼らはエンジュの加入後、最初に徴兵があったとき、エンジュに、女たちと待つか、と尋ねた。エンジュは行くと答えた。
ユーダは、杯を絶対に断らせない。ひと口飲むまで、決してエンジュを解放しようとしなかった。ユーダは芸人一座のゆるやかな絆を杯に求めた。
エンジュはティンダルでの記憶から、酒全般もぶどう酒も見たくなかったが、ユーダに応えるため、いつもひと口だけつきあった。だが、口にした直後に嫌悪感に襲われるのが常だった。
エンジュは夕餉のたき火を離れ、すみやかに一人用の天幕に戻って、寝床にもぐりこんだ。
あのマリオンの隠された異名——〈黒いぶどう〉。ひとたび他のぶどうと一緒にしてしまうと、知らぬまにぶどう酒は腐敗してしまう。……
(マリオンは今、どうしているんだろう)
マリオンは帝王の使命を果たした見返りに、何不自由ない生活を送っているはずだ。わかるのはそれぐらいで、地上で旅から旅の暮らしを続けるエンジュに、メサウィラ王女の話など聞こえてこなかった。樹上城の頂上のことは、それをはるか高く仰ぐ地上の人々には知るよしもないのだ。ティンダル滅亡を命じたという帝王のことさえ。
(ザイウスやセレステに、帝王のことをもっと聞いておけばよかった)
自分の敵の姿を、もっと知っておくべきだった。けれど、パンタグリュエル家にいるあいだは、そんなことは考えられなかった。ザイウスは初めて会ったとき、今はエンジュの判断力はまともではないと言ったものだが、実際そういうことだったのだろう。
しかし、こうもエンジュは思う。
敵とは何だろう——と。
確かにエンジュはティンダルだ。メサウィラ帝王はそのティンダルを滅ぼした。であれば、帝王はエンジュの敵にちがいない。でも。
(メサウィラ。帝王)
胸の中でつぶやいてみても、何ら心は動かない。
故郷を滅ぼされたというのに、自分は確かに〈ティンダルの馬〉の一員のはずなのに。やはり、失って初めて実感する程度の故郷は、自分の軸にはならないのだろうか。
(敵は、メサウィラ?)
(からだはティンダル)
心は——ちがうとでも? 故郷がまだ健在だったころ、別の場所に生まれていればと何度願ったことだろう。けれど、故郷は故郷、自分の場所はティンダルしかないと、失ってからわかった。それでは、今はどうだろう?
自分のことがわからない。疑うことを知らなければ、あのティンダルの大樹の下で競争を強いられたときに勝利の喜び以外なにも感じなければ、幸せなティンダルとして死んでいけたのだろうか。
——喪失が何かもわからないまま、生きていく。
手をのばした先に、親友の大トカゲが眠っていた。ルルはもはや巨大すぎて、エンジュの天幕から尻尾がはみでている。
濡れているように光るトカゲの皮膚を、そっと撫でる。眠っているように見えたルルが、細く目をひらいた。何かをうながすように、エンジュにうなずいてみせる。エンジュは口ずさむ。
〈神々の御世、星々の下なる丘にて〉
星の子墜つ……〉
ルルは満足げにふたたび目を閉じる。
エンジュの世界もまた、急速に移り変わる。夜の天幕の薄闇から、より深い闇へ。
気がつけば、エンジュのからだは浮かびあがり、やがて、ふわりと降り立った。かたわらには、相も変わらずトカゲの姿がある。
ふたりが降り立ったのは、あの水路のそばだった。どこまでも続く果樹の林のなかを、清く冷たい水がさらさらと流れていく。
水の行くほうへ、エンジュは進む。水路の行きつくところに小さな東屋があり、そのなかに矩形の池がある。水底から水がこんこんとわきあがり、小さな水泡がしきりと水面にのぼってくる。
しゃがみこんで、それをみつめている人がいる。
エンジュとルルが東屋に入っていくと、気づいて顔をあげた。
エンジュにほほえみかけたのは、少年だ。エンジュはわけもなく震えたが、少年から目を逸らさない。
「……こんばんは」
「こんばんは」
風が立ち、波紋が水面にひろがった。風が東屋のなかを駆け抜け、果樹園へと吹き去っていく。
少年とエンジュは、ふたり同時にその風を目で追いかけ、風がどこかへと去っていくのをじっとみていた。
To be continued.