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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第11話「“本当のこと”」(1)

 あたり、——と、誰かが言った。

 シフルは耳をそばだてた。それは確かに、なじみ深い友人の声だった。もっとも、その友人と親しくなるよりずっと前から《彼》とは知りあっていたので、なじみ深いというなら友人ではなく《彼》のほうなのだけれど。

「……どこ?」

 ここ、ここ、——と、声は答えた。

 ここではわからない。シフルはむっとして、でも意地を張り、ここってどこだよ、と問う前に自力でみつけだそうとした。展望台に昇ってくる階段、いちばん近い校舎の窓という窓、展望台から降りていった先にある浜辺。少年はいつも以上に躍起になっている。だが、声はもっと至近距離から聞こえてくるようにも思った。

「どこだよ」

 シフルは呼びかけた。

「ここだよー」

《彼》は勢いよくゼッツェを鳴らし、居場所を主張した。ポー、と震えるような優しい音。シフルはきょろきょろと音の出所を探した。もう一度、《彼》の音色。どうやら、展望台の手すりのむこう側から聞こえている。浜辺にはいなかったが、まだ見落としがあるのかもしれない。

 そういえば、《彼》ひとりの音色を耳にするのは初めてだった。《彼》は常に、シフルが奏でる曲の低声部に飛びこんでくるのだ。シフルが曲を決めて吹きはじめなければ、決して存在を示さない。それで、《彼》の居場所がつかめなかった。

 だが、シフルはすでに《彼》の正体を言い当てたし、《彼》も姿を現すつもりでゼッツェを鳴らしている。やっと《彼》に会えるのだ——この時間、この場所で、お互いゼッツェを携えて。シフルは、展望台の手すりから身を乗りだした。

「シフル、ここ」

 声に呼ばれて眼下に視線を落とすと、《彼》の手が岩から生えており、少年にむけてひらひらと振られていた。

 展望台の下、迫りだした岩の中腹あたりが、なぜそうなったのか知らないけれど、大きくえぐれている。よくよく見てみれば、岩のくぼみは小さな部屋のようになっていて、彼女はそこに悠然と腰かけ、シフルを見上げているのだった。片方の手に、新品同然のゼッツェ。比較的最近買ったのだろう。

《彼》と出会ったのは、シフルが理学院に入学してしばらく経ってからの話。せいぜい三、四ヶ月前だ。計算は充分に合う。なぜなら、最初のころの《彼》は、それは音が悪かった。最近でも、運指はやたらと器用だが、音のほうはまだまだ初心者らしさが残る。

「……本当にセージだよ」

 シフルは、手すりを握ったままへたりこんだ。どういう意味かな、と、セージがいけしゃあしゃあと返してくる。声があからさまに笑っていて、ほぼ確信犯まちがいなしだった。

 思ったとおり、昼間のやりとりは布石だったのだ。だってシフルは、火(サライ)に愛されているんだから、と彼女は断言した。想像や推測だという空気を一切匂わせず、それしかありえないとばかりに言い切った。理知的で客観的なセージが、確証のない意見をそれと補足することもなく口にするなんて、それこそありえない。

 そのうえに、青い水(アイン)の光である。これまでは悟らせもしなかったくせに、突然見せつけてきた。第二の布石といっていい。《彼》——セージは、今日こそシフルに正体を明かそうと思い、楽しげに鍵をばらまいてくれたのである。

 シフルは言葉がみつからなかった。今の気持ちを構成するのは、多少の失望に脱力感、それに加えて、期待どおりだったことのうれしさももちろんある。《彼》がセージだったことのうれしさだって、ないわけではない。

 最初から、相手は同じ学生だろうと踏んでいた。それでこの三、四ヶ月、いつもびくびくしていた。《彼》がいついなくなるか。理学院は世間の学校とは異なり、昨日までいた学生が今日去っていくことなど日常茶飯事。せっかく出会ったゼッツェ仲間が、ある日突然訪れなくなったとしても、何ら不思議ではなかった。

 だが、それがセージだというなら、まず悲しい別れはこない。シフルが学院にいる限り、セージが卒業しない限り、《彼》はシフルとともに日々合奏する。

 けれど——朝起きて、食堂に行ったら《彼》がいる。夜、疲れて寮に帰ってくるとき、《彼》が隣を歩いている。それは、これまでこいねがってきた状況のはずなのに、実はとうの昔に実現していた。なんとなく脱力感があるのは、そのせいだろう。

「待ってて。今、そこ行くから」

 そう告げて、セージは岩に張りついた。シフルはその様子を上から見ていたが、何の道具も使わず、片手にはゼッツェを握りしめ、がしがしと岩を這いのぼってくる姿には、ただただ驚嘆するばかりだった。さすが、あの水源で遊び育っただけのことはある。しかもおそらく、彼女が《彼》になるときはいつもそこに降りていくのだろうから、都会っ子シフルにとって、セージという人間はまるでびっくり箱だ。

 上までやってきて、手すりを乗り越えると、お待たせ、と余裕の体で手をはたく。シフルはどんな表情をすればいいのかわからず、うん、と唇を曲げた。

 セージのせいだ。

 セージのせいで、《彼》にどんな顔をみせたらいいのか、《彼》にどんなあいさつをしたらいいのか、《彼》とどんな話をしたらいいのか、これまで全部思いあぐねてきたことが水の泡だ。どうも、会うのは初めてだな、とか、そんな顔してたんだな、とか、そんなふうに言いあう日のことを、シフルは《彼》とゼッツェの音を合わせながら、いつも想像していたのに。

 そう思っていたら、顔に出ていたらしい。セージが少しだけ申しわけなさそうに、

「怒ってる?」

 と、訊いてきた。シフルは膨れっ面で返す。

「べーつーにー。三ヶ月も四ヶ月もかけたイタズラが完成して、おめでとさん」

「あら、ずいぶんだね。でも、残念だけどその想像はハズレ」

「そうかあ?」

 シフルは腰を下ろして、手すりに肘をついた。セージはその横に座る。少年の視界を埋め尽くす、夕暮れ時のヤーモット海の端に、彼女の横顔がある。

「これがイタズラだとしたら、何ヶ月も前から、私はシフルが『好敵手』宣言するって予測していたことになるね。数ヶ月後に出会うシフルをからかうために、いつも展望台を見張ってたって。私は先見の明をもってるというわけだ」

「得意のいやみか」

「そうじゃない。本当のことは、他のところに隠れてるんだ」

 またそれか。シフルはばかにされている気がしてきた。他人の本当のことなんて、理解している人間のほうが珍しい。

「ばかになんかしてないよ」

 と、シフルの心中を察したセージが言った。「ちゃんと知ってほしいだけ」

「あーッだーッ!」

 おもはゆい雰囲気に耐えられず、シフルはいきなり立ちあがる。「もう、やめ! やめ!」

 少年が叫ぶと、セージは眼をまたたかせた。この手の話題に関しては、往々にして男子のほうが数年遅れがちである。しかも、普段あまりにも別の問題に気をとられているシフルでは、この慣れない状況下で黙っていられる忍耐力も、状況に対する従順さも持ちあわせていない。

 少しの変化ならば、受け入れられる。しかし、急激すぎる変化には向きあえない。まして、理屈も証拠も意味をなさない話題では。

「オレは知らない! セージが何を考えてても、オレにはずっとセージは好敵手だった」

 シフルが言い放つと、

「だけど」

 べつだん傷ついたそぶりもなく、平然とセージは答える。「私はずっと友達になりたかった」

「——は」

 シフルは口をそのかたちに保ったまま、停止した。ついでに思考も停止した。

 理学院入学以来の心の好敵手《セージ・ロズウェル》。常に背筋を伸ばして、ひとり廊下を歩き去るのが、彼女の彼女たる姿である。Aクラスに入り、宣戦布告をすませてからは、シフルを負かせてはいやみをいったり皮肉に笑ったりするのが彼女。シフルの対抗心につきあう親切心はあっても、そのじつ彼を認めることはない、誰の追随も許さぬ《召喚学部最後の天才》。

 その彼女が、友達になりたかった、だと? それも自分と? ——すでに、状況に流されてセージとは友達らしくなっていたけれど、そんな現実よりもいっそう受け止めがたい事実である。

 セージが楽しそうに笑う人だと、知っている。

 弟妹たちを母親のようにしつける人であることも。うるさく小言をとばすものの、家族にとても愛されていた。

 けれど、シフルにとってのセージは孤高であり、頂点にいつづけること以外の何ものも志向しない人だった。だからこそ、シフルは彼女を追いかけて、自分を認めさせたかった。彼女がシフルを直視するとき、少年のなかで何かが達成される。そのはずだった。それなのに、彼女は最初からシフルを知っていた。認めるとか認めないとかは別にして、少年を追っていた。

 シフルは、《セージ・ロズウェル》であるセージと、《彼》であるセージを、二方向から追い求める。セージは、ただシフルであるシフルを。ふたりは、お互いの背中を追いかけて、同じ場所をぐるぐると回っていた。そして今、シフルが振り返り、セージは少年に追いついた。代わりにシフルは、追いかけていた背中を見失ってしまった。

 胸のうちにある失望は、そのせいかもしれない。追いかけて、追いかけて、追いかけて、すぐうしろにいることに気づいたら、目の前にはもはや何もない。これまで走ってこれたのは、《セージ・ロズウェル》という目標と、《彼》という見知らぬ友人の助けがあったからなのに。

 ——でも。

 シフルはいったんうつむいてから、セージをまっすぐに見た。目が合うと、彼女はかすかに笑う。

「何か、おかしいか」

「シフルの顔が赤いから」

 セージはやわらかい表情で答えた。シフルは頭を振る。

「赤くない」

「どう見ても赤いよ」

「夕日のせいだ」

「シフル」

 水かけ論をやめて、セージが彼を呼んだ。その声色は、いまだかつてない優しさに満ちている。けれど、

「ずっとだましてて、ごめん。でも、本当なんだ」

 そうつぶやく彼女は、優しさよりももっと優しいもの、それでいて強く確固としたものを抱いているように思われて、シフルは覚えずセージの黒い瞳に見入った。

 そうして、長い話が始まった。

 

 

  *

 

 

 セージの母親は生粋の農家育ち。だが、父親はちがう。

 父親は理学院に所属する学者だった。水(アイン)学を追究してサイヤーラ村の水源に行きあたり、そこでセージの母親と出会う。召喚学部の助手でありながら、精霊の愛にあずかることのなかった父親は、水源の調査とともにグレナディンでの身分も放棄してロズウェル家に婿入りした。

 父親は農業に真剣に従事し、ロズウェル家のよき父ともなったが、かつて捨ててきた道への未練からは逃れられなかった。長女のセージが物心ついたころ、彼はしまいこんでいた蔵書を引っ張りだしてきては、彼女に読んで聞かせるようになった。セージに優秀さのきざしを見いだすと、いよいよ本格的に勉強を叩きこんだ。

 思うに、父は研究者というより教師だった、とセージは語る。サイヤーラ村には初等教育機関すらなかったけれど、彼女は海綿のように知識を吸収していった。競争相手がいなかったから、他の子供と比べてどれほどなのかは知りえなかったものの、少なくとも父親はたびたびセージの才を褒めた。

 十五歳を過ぎたころ、父は理学院への編入を勧めた。おまえはもっと先に行ける。よき学友を得て、上をめざしなさい——と。父は何もいわなかったが、セージは彼の古い夢を代わって叶えるのだと理解していた。

 果たして、彼女は満点入学を達成する。鳴り物入りで学院に迎えられ、セージは家を離れた。

 そのとき胸を満たしていたのは、大きな期待だった。

 ——よき学友を得て、上をめざしなさい。

 父の言葉に、胸が膨らむ。セージは思った。みんなきっと、何らかの目的があって理学院に入学し、高い志をもって勉強に励んでいるのだろう。女も男も関係なく、みんな目標のためにがんばる仲間なのだ。……

 しかし、田舎からはるばるやってきた少女の期待は、あっさりと裏切られた。何のために学院に入ったの、と問うと、たいがいおざなりな返事がくる。例えば、親にいわれたから、あるいは前の学校のレベルが低すぎてここに来るしかなかった、などなど。

 セージは失望した。父のいう、夢のような学びの園は、ここにはない。よき学友も、めざすべき頂上もない。ただ、便宜上のレベル分けがされているだけ。

 ——サイヤーラに帰りたい。

 入学後一週間で、セージは後悔した。でも、もう遅かった。

 一人の女学生と出会ったのは、そんな矢先だった。彼女の名はオコーネル。初級(エレメンタリー)クラスの同級生で、たまたま話す機会があり、セージはいつもの質問を投げかけた。

「そういうロズウェルさんは?」

 と、彼女は聞き返してきた。これは、初めての反応だった。

「えー、私はね……。入学前はただ、ちゃんと勉強がしたかった。入学したあとは……」

 親しくない人間にこんな話をしていいものか迷ったが、この質問に答えないわけにはいかない。「いっぱい、精霊たちのことを知りたいって、思うようになった」

 ちょっと漠然としすぎてるかな、と照れ笑いするセージに、オコーネルは、そんなことない、と頭を振った。

「すてきだわ」

「そうかな?」

「今はまだそのくらいでいいと思うの。初級(エレメンタリー)ですもん」

 オコーネルはそうつぶやき、まっすぐにセージを見て微笑んだ。「私はね」

 彼女はゆっくりと唇を開き、

「——精霊を兵器として使わせないようにしたいの」

 と、言った。「そのためには、教会のおえらいさんにならないといけないから」

 その言葉に、セージのなかで何かが弾けた。

 オコーネルは完璧だった。父のいうよき学友として。上をめざす高い志は、私利私欲とは縁がない。ひたすらその思いのために上に行ける。彼女はそういう学生だった。

 ——オコーネル。あなたって、すごい……!

 セージはあっというまに彼女を好きになった。

 オコーネルのほうでも、彼女の好意に応えた。二人は友達になった。

 セージは常に、オコーネルを讃える。オコーネルはそんなセージにむかって、いつも苦笑した。ありがとう、でも私、授業や試験じゃちっともセージに勝てないわ、と。

 私は人真似の天才だもん、とセージは切り返す。だから私、ついにはあなたの目標まで《イミテート》しちゃったみたいなんだけど、——怒らない?

「ううん」

 オコーネルは首を横に振った。「あなたも一緒なら心強いわ」

 私たち二人、精霊たちが兵器として使われないよう、世を導きましょう——。二人は誓いあった。若さゆえの理想と使命感に燃える少女たちに、怖いものはなかった。

 信念は明瞭なかたちをとり、志を同じくする友人はいつもそばにいる。

 それは、すぐさまセージに影響した。入学当初、彼女には欲がなかった。けれど、進むべき道筋が見えたなら、極力はやくそこを走り抜けたいと考えるのは当然である。理学院の学生であるセージにとって、目標へ最短距離でたどりつく手立てとは、着実に昇級試験を合格していくことだ。

 そうと決まれば、セージは脇目も振らず勉強に勤しんだ。オコーネルとは互いに協力を惜しまず、積極的に情報を交換しあい、時には二人でノートの要点をまとめたり、あるいはそれぞれ単独でノートを暗記したりした。

 初級(エレメンタリー)クラスはあっさりと通過した。セージとオコーネルは確信していた。こうして自分たちはひた走り、徐々に目標へ肉薄するのだと。Dクラスなど、通過地点にすぎない。すべては——これから。

 セージは故郷にむけて手紙を書いた。お父さん、私は「よき学友」に出会い、日々切磋琢磨しています——。彼女は手紙を学院の郵便課に託すと、さっさと忘れた。トビス、しかもサイヤーラは、プリエスカにおける辺境中の辺境であり、とうぶん返事は届かない。今日も明日も明後日も、親の反応が来ようが来なかろうが、勉強は続けなければならないのだ。

 事件が起こったのは、そのころである。

 そろそろDクラスにも慣れようかというころの、よく晴れた日。セージは今でも、あの日見た空を思いだす。むろん、苦々しさ、忌々しさ、その他たくさんのいやな感情をともなって、だ。とはいえ、実際にオコーネルと渡り廊下を歩きながら、校舎と校舎によって区切られた空が目に入ったときは、ああ、よく晴れてるな、と何げなく感じただけだったけれど。

 晴れていたものの、風は強かった。狭苦しい四角に切り取られた空の隅から、白い雲が顔をのぞかせては、セージが一瞬足もとに目を落とした隙にいなくなる。セージは、お昼ここで食べましょう、と言って、教室の扉を滑らせた。視界の端には、廊下のむこうからやってくる一団を何ともなしにとらえていた。

 二人は適当な席に陣取ると、昼食にした。ややあってオコーネルが、飲み物もらうの忘れてたみたい、といって出ていく。セージは人気のない教室にひとり残されると、先に食事を始めることにした。卵サンドにかぶりつき、紅茶のカップに口をつける。

 しばらくして、再び教室の扉が開けられた。セージは目をあげる。

「——よお」

 男子学生が入ってきた。そのうしろから、男子学生数名が続き、先頭の男子の合図で扉が閉められる。

「どちらさま?」

 セージは彼らを警戒した。先頭の男子学生は、うすら笑いを浮かべて近寄ってくる。

「ひどいな、ロズウェル。覚えてないのかよ、同じクラスだったのに」

「あら、ごめんなさい」

「覚えてくれよ?」

 そう言って顔を近づけてきた学生の校冠に、石はなかった。

 理学院に所属する者は、誰であれクラスや肩書きによって色分けされた石を校冠につけなくてはならない。初級(エレメンタリー)なら無色透明の石、Dクラスなら黄色の石、教員であれば紫色の石、という具合だ。それがないということは、学院に属す者ではないということである。

 すなわち、学生のふりをして院内に忍びこんだ侵入者、もしくは単にその権利を失くしたか。一番ありうるのは、彼がすでに退学を宣告された学生だということ。問題を起こしたか、さもなくば初級(エレメンタリー)を脱落したか。

 ならば、覚えているはずもない、とセージは思った。努力不足で去る者など、いちいち覚えていたらきりがないし、もっとも関心をもてない類いの人間である。セージにとって大切なのは、自分とともに先をめざす人間のみ。脱落者は黙って去ればいい。

「むりいわないで」

 と、セージは答えた。「いなくなる人間の顔なんて、覚えたところで活用する機会がないもの」

「は、言ってくれるね、満点入学の天才さまは。まったく、かわいげのない」

 男は吐き捨てたが、顔は笑っていて、それがセージには不気味だった。「そうとも。俺らは、いなくなるんだよ」

 その前に、あんたのかわいいところが見てみたくてさ——。あろうことか、男はそう告げた。セージは反射的に、差しだされた手を力いっぱい払いのけ、あとずさった。むこうでは、男の仲間らしい、やはり校冠に石のない学生たちが、内側から扉に鍵をかけている。

「やめて!」

 セージは叫ぶ。男たちは愉快げに笑った。セージが走りだすと、さっきの男が立ちはだかった。横を通り抜けようとして、彼女は乱暴に羽交い締めにされ、そのまま床に引き倒される。

 ——なぜ。

「なんで、こんなこと」

 迫ってくる男の顔を必死に押し返しながら、彼女は問う。わからない。今ここで一時の欲望を満たしたとして、この男は何の得をするのだろう。むしろ、自分が学院側に通報すれば、退学どころか法廷行き、最終的には社会的な咎めを負うというのに。

「何の意味があるの……」

 状況に焦りつつも、それは純粋な疑問だった。が、

「意味?」

 と、男が鼻で笑う。「意味が必要か? 俺があんたを好きだったとか、だからあんたで欲望満たしたいとか、あんたの鼻あかしてから退学したいとか? ……意味があれば、いいわけ」

 そのひと言で疑問は吹き飛び、代わりに怒りの熱がセージを襲った。

「死んでも!」

 全力で、男の頬に張り手を見舞う。「——いやに決まってるじゃない」

「だよなあ」

 男は打たれた頬をさすろうともせず、やり返す。父に叩かれるのとはちがう、手加減なしの暴力だった。意味も理由もない、衝動だけの暴力は、行きつくところまで行くしかない。セージは叫び、なりふりかまわず抵抗した。彼女が歯を食いしばって本気で逆らったので、男は何度もセージを殴ったが、彼女はやめなかった。

 ついに、男はしびれを切らした。入口で見張りをしている学生たちを手招く。

「おまえら、手伝え」

 四人の男は仲間をあざけったが、手を貸すのに異論はないらしかった。ゆったりとした足どりで、扉を離れる。セージはそれを見て、めげそうになった。男五人にセージ一人。たちうちできるわけがない。

 どうして初級(エレメンタリー)クラスでは召喚実習を教えてくれないのだろう、とセージは痛切に思った。力があれば、彼らなどたやすくひねってやれるのに。だがすぐに、学院側の判断の正しさを思い知った。なぜなら、彼らもまた力を使うだろうし、近いうちに学院を去る可能性の高い初級(エレメンタリー)の学生に力を与えたなら、グレナディンの街に狼を放つに等しい。愚かな者が力をもつほど危険なことはない。

(誰か、助けて)

 救いがやってくるのを祈るしかなかった。そうだ、オコーネルがそろそろ戻ってくるはず。彼女に助けを呼んでもらえば、きっとなんとかなる。

 セージはその希望を信じた。でも、涙が出てきた。片手で男に抗いつつ、もう片一方の手で顔を覆う。目の前の男は、何がうれしいのか、ほくそ笑んだ。

 ——女も男も関係ない、目標のためにがんばる仲間。

 セージが求めていた、学生の理想像。

 彼女はそれを確かにみつけた。オコーネルという親友。けれど、それ以外はどうだろう。もちろん、学生全員を知っているわけではないが、少なくともこれまでに出会った学生たちは、おおよそ理想とはかけ離れている。

 理想は理想、最も高いところにあるものだから、それはそれで仕方がない。しかし、そうわかってはいても、今この身に起こっていることをいったいどう説明しよう。

 理想もなく、意味もなければ、理由もない。

 なぜ。

 ——どうして。

 セージはなお、尋ねたかった。手足を押さえられても、口を塞がれても、頭のなかにあったのは——その言葉。

​To be continued.

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