精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第4話「眠れる森で君を待つ」(2)
眠りは際限のない螺旋で、どこまでも深くへといける。
夢もみないような深い眠りを、オースティンは望んだ。彼女のいた《赤の庭》を離れる気はしないのに、手足に力が入らないのにまかせて眼を閉じるとき、自然と浮かんでくる彼女の姿は、少年には疎ましく、それでいて何より鮮やかだった。夢でしかない彼女に想いを寄せること、うつつにいる彼女と冷ややかな言葉を交わすこと、同じもののはずの彼女を憎むこと。それは矛盾であり、不毛であり、おのずと気力が奪われていく。
ひたすら、眠っていたかった。一歩たりともここを動きたくない。次に目を覚ましたとき、最初に見る顔がアレンであるようにと願う。そうすれば、思わしくないことのすべては半分になる。
アレンがオースティンの要請を拒否したという知らせがあってから、すでに二ヶ月。
しかし、アレンは必ず来る。オースティンは確信している。
(もしも、大公閣下と皇帝陛下と皇女殿下がお許しになるのなら、ぼくは公子が泣いていやがってもついていきますよ)
アレンは冗談をいう人間ではない。よって少年は、たとえ《赤の庭》が廃園と化そうとも、ここでの眠りをやめる気はなかった。実際、つい一ヶ月前に実がなっていた灌木も、とうの昔に種を落としきって、今は沈黙するばかりである。このごろは、ライラ以外の者は女官すらも立ち寄らない。オースティンがそう命じたこともあるが、枯れ木に埋め尽くされた庭園を誰が散策したいものか。
「オースティンさま——」
誰かが呼んでいる。
ライラではない少女の声。キサーラだろう。彼女はいずれ女官になる身とはいえ、今はまだアグラ宮殿の者ではない。ライラにするような、邪険な態度はみせられない。オースティンは寝転がったまま手を振った。
「こんにちは、オースティンさま」
少女は、すぐに気づいて駆けてくる。「今日も寝てらっしゃるんですね」
オースティンは仕方なくからだを起こした。キサーラが枯れ葉や埃を払ってくれたので、少年は《英雄の現身》らしく微笑んで礼をいう。少女は頬を赤らめて、いいえ、当然のことです、と将来を予感させるしっかりした口調で答えた。
キサーラは、最初の慈善園訪問の際に出会った孤児の少女である。オースティンはあの日、差しだされた彼女の手にすがって離さなかった。それでライラが、オースティンへのご機嫌とりの一環として、キサーラを《赤の庭》に連れてきたのである。正確には、ライラがアグラ宮殿に招いたのはキサーラだけではなく、伝承に詳しい老師や楽師など多岐にわたっており、総勢三十人ほどもいたが、このしつこさは、おそらくマーリの指示によるものだろう。
ライラは心得たもので、枯れた庭を訪れる客はみな、何かしらオースティンの関心を惹いた。老師が聞かせてくれた火(サライ)伝説は興味深かったし、楽師の琵琶の音はうらびれた庭にはうってつけだった。よりにもよって火(サライ)伝説に明るい人間が呼ばれるあたり、ライラはあの宴のおりにでも、オースティンを観察していたのかもしれない。あるいはファンルーが教えたか。どちらにしても、彼女らの仕事上、必要なことだ。
数多の客のなかでも、キサーラは問題だった。好意と善意しかない民、しかも少女に対しては、さしものオースティンもいやな顔はできない。庶民派たる《英雄の血》がそうさせるのか、女性への来るもの拒まずが習性として身についているのか、醜態をさらしたことがうしろめたいのか。オースティンは相変わらず《赤の庭》に居座りつつも、キサーラとはまともに言葉を交わさざるをえなかった。ライラはそれを理解しており、他の客は二度と招かなくとも、キサーラだけは頻繁に呼んでくれる。まったく、弱みはみせるものではない。
「トゥルカーナからの便りがまだ来ないんだ。キサーラ」
オースティンは弱々しくつぶやいた。「アレンがいないと、公務に従事する力がわいてこない。皇家の人間でありながら宮殿に迷惑ばかりかけて、恥ずかしいよ」
「そんな。オースティンさま」
少女は気遣わしげに答える。「アレンさま、旅の途中で病気になったりしていなければいいんですけど……。心配ですね。わたし、アレンさまに早く会いたいです。オースティンさまは、すごくアレンさまがお好きみたいだから」
オースティンを元気づけようとにっこり笑ったキサーラに、少年も笑みで応える。あくまでも「かろうじて」浮かべたふうの笑顔で、オースティンはうなずいてみせた。
「いくら遅くても、キサーラが卒業するころまでには着くはずだ」
「それじゃ、あと一ヶ月。あと一ヶ月でアレンさまに会えるんですね。オースティンさまも、わたしも!」
「——そうだな。ありがとう、キサーラ」
そうして、今度は「自然に」目を細めてみせる。すると少女は、心底うれしそうに笑みをみせた。ファンルーと同じ慈善園の生徒でありながら、この屈託のなさ。メアニーにも驚いたが、この少女も特殊な例といえそうだった。そしてそれゆえに、いいかげんな対応はできなかった。
キサーラは十三歳である。慈善園卒業は十四、五歳が一般的だそうだが、彼女はライラのはからいで、オースティンの世話をするために卒業を早められるという。皇女婿や皇女と口をきけるのは《五星》のみなので、失敗だらけのメアニーを降格させ、代わってライラが第四席に昇格、末席にキサーラが名をつらねるにちがいない。
自分の予想に、オースティンは反吐が出そうだった。ライラはキサーラをオースティンのそばにおき、彼の勝手な振るまいを牽制して先輩女官の歓心を買えるばかりでなく、自分の席次も上げることができるのだ。その賢さは褒めてやってもいいが、気に食わないこと甚だしい。
成功に執心しているとも思われないのに、そのくせ、なかなかのそつのなさ。ぬかりらしいぬかりは、影姫だと発覚するきっかけになった一件のみで、つけいる隙はほとんどないといってよく、少年としてはいらだつ一方である。
彼はただ、聞きたかった。故意を「失敗」とした彼女の、本当の意図を。それを知ることができたなら、《赤の庭》に居座る理由などない。ラージャスタンの皇女婿として、完璧に公務をこなしもしよう。けれど、現実にライラが「失敗」と言い張っている以上、オースティンは悪評を受けながら眠りつづけるほかなかった。
アレンを待っているあいだ彼にできることは、ライラの連れてくる客人をあたうる限り丁重に迎え、悪評を最小限にとどめること、それだけである。あまり長期にわたる前にやめてくれればいいのだが、マーリの命令だとすればそうもいくまい。とにかく、アレンがラージャスタンに到着するまでの辛抱だ。
「それで、いま大変なんですよー、オースティンさま」
「ふうん? どうした」
オースティンが尋ねると、キサーラは唇を尖らせる。
「私は皇家のかたがたにお仕えするにはまだまだ未熟だって、先生たちにつきっきりで指導されてるんです。それはそうだけど、体力がもたないですよ。今日は、ラ……マーリ皇女殿下にお呼ばれしているからと、久しぶりに休めました」
キサーラはライラと歳が近い。慈善園で顔見知りだったのだろう、彼女は公的な場に現れる《マーリ》が影姫であることを知っている。
「そうか。では僕が、卒業を延期するよう頼もうか?」
オースティンは若干の期待をこめて言う。この娘が始終侍るようになっては気が休まらない。が、
「いいえ! 私、勉強はもういいので、オースティンさまに早くお仕えしたいです」
彼の提案に、キサーラは全力で頭を振った。「それに……慈善園は窮屈で、ずっと出たかったんです。オースティンさまを口実にするんじゃないですけど」
「それならいいが……。でも、いったい慈善園というのは、どんな生活をしているのかな。そんなにいやなところだろうか」
「ご存じないんですか?」
キサーラの表情から笑みが消える。
「……ああ。僕が教えてもらったのは、アグラ宮殿で働く者はみな、そこの出だということぐらいだ。君の先輩のメアニーに聞いたんだが」
「トゥルカーナで、教わらないんですか?」
(トゥルカーナ?)
少年は眉をひそめた。なぜ、ラージャスタンの孤児院のことをトゥルカーナで習わなければならないのか。
「じゃあ、トゥルカーナで何か問題になっていたことはありますか?」
「問題……?」
「何でもいいです」
キサーラは明らかに、ひとつの答えを導きたがっている。
「資源不足とか、いつでも財政難とか……?」
「福祉はどうなっていますか?」
「充実しようがないが」
それにもかかわらず大公の住むサンヴァルゼ城は豪華だが、その点は黙っておく。
「では、孤児はどこに行きますか?」
「孤児院だろう」
常識的な返答をして、少年ははたと止まる。
トゥルカーナでのオースティンの仕事は、勉強と外交と宣伝である。国外で開催されるパーティーに出席するほうが多かったものの、国内でも、建国記念日に一族総出でパレードにくりだしたり、高等学校に招かれて講義に参加したり、救護院を慰問したりした。考えてみれば、病人や老人の手を握ったり学生と歓談したりはしたが、大勢の孤児に囲まれたのは慈善園訪問が初めてではないか。
トゥルカーナでは十六年間生きた。それだけあれば、主要な公立の施設はあらかた制覇できるはずで、オースティンがとりわけ孤児院を訪れていない、などということはありえない。そうなると、まさかとは思うが——
「トゥルカーナには、孤児院がないんですよ」
キサーラはきっぱりと言った。「孤児はどこにも行けないんです」
「しかし……」
「オースティンさま、今までご存じなかったなら、信じがたいことかもしれませんけど——」
彼女はここで息をつき、
「——《わたし、親にもらった名前は、イルシア、といいました》」
ひどく懐かしい言葉で、ゆっくりと述べた。「《キサーラというのは、慈善園の前にいた孤児院でもらった、ラージャスタン名です》」
「……《おまえは》」
オースティンもまた、久々にその言語を口にする。三、四ヶ月ぶりとはいえ、彼の母語だ。舌先から滑りでた。
「《トゥルカーナ人です。公子殿下》」
「《なぜ、トゥルカーナの孤児がラージャスタンの孤児院や慈善園に……》、いや」
オースティンは途中まで東言(とうげん)でいいかけて、やめた。すでにさんざん身勝手な振るまいをしている者としては、このうえ外国語で会話しようとは思えなかった。確かに公的な人間として堕落はしたが、最低限の線まで踏み越えたくはない。
「そんなことまで、僕の国は他国に寄りかかっていたのか」
「やっぱり、ご存じなかったんですね」
「僕は、最初からここに来ることが決まっていたからな。教える必要がなかったんだろう」
オースティンは苦笑した。「勉強はそれなりにやっていたつもりだけど、……情けないな」
そうですね、とキサーラは率直に同意した。少年はもう一度、困ったように笑ってみせる。少女がオースティンに対しこんなにも気軽でいられるのは、彼女がトゥルカーナ生まれのトゥルカーナ人で、親しみある主従関係の伝統を肌で覚えているからかもしれない。アレンが平気で主を蹴り飛ばしていたことを考えれば、これくらいはかわいいものである。
が、かといって、少年はキサーラに気を許そうとは思わなかった。キサーラはトゥルカーナ人だが、「元」トゥルカーナ人であって、現在はラージャスタン人以外の何ものでもない。オースティンにとっては、この国での己の評判を左右する、重要人物の一人である。
それよりも、オースティンにとってひっかかるのは、トゥルカーナの孤児がラージャスタンの孤児院で育てられているという事実だった。ということは、ファンルーやメアニー、はたまたライラがトゥルカーナ人だという可能性も出てくる。
(東言か……)
ふと、思いだす。初めてライラに出会ったとき、彼女は流暢な東言で話しかけてきた。皇家の人間ならば、外交の道具として大陸中の言語を使えてもおかしくはないし、実際オースティンは主要言語をすべて押さえているので、マーリも同じだろうと当然のようにみなしていた。
しかし、本当はちがうのではないか。ライラはトゥルカーナ人で、ほんらい東言の名前をもちながら、慢性的な財政難により孤児院の運営ができないトゥルカーナにより、ラージャスタンに送りだされたのでは? だとすればライラは、自国民を他国に押しつけたトゥルカーナを恨み、大公一族を恨み、大公一族の象徴たる《英雄の現身》オースティンを恨んでいるかもしれない。
(ありえない話じゃない)
少年はひとりごちる。
つまり、彼女の一連の行動を、
——復讐。
という言葉で、意味づけるのだ。
むろん、オースティンも一介の少年である。彼女の不可解さを少年への恋慕によって根拠づけることも、試みなかったわけではない。というより、少年の願望はそれだった。けれど、ライラが少年に対して抱いているものは、愛情にしては冷ややかである。あれが情のかたちならば、まちがいなく歪んでいる。
情でなくとも、歪んでいるのだろう。彼女の不可解な挙止が、オースティンを惑わせ、歪ませた。むしろ、オースティンを傷つけるのが目的のようでもある。それでいくと、トゥルカーナ人孤児による公子への復讐というのは、かなりつじつまの合う話になる。
宴の晩、あの四阿(あずまや)でトゥルカーナ料理に似た鹿鍋をふるまって、彼女は瞳を潤ませた。
(……お腹いっぱい食べましょう? オースティンさま。わたくしたちが食べきるしかないんですもの)
あれは、そういうことだったのだろうか。
——僕は最初から、ライラに憎まれていたのだろうか? ……
「オースティンさま? もー、聞いてます?」
キサーラが少年の肩を揺さぶった。「オースティンさまが私の手を握ったのは、ご自分の国の者だとわかったからだって、思ってました」
「それは買いかぶりすぎだ」
オースティンはぽつりと返事をする。「僕は単に、寂しかったんだ。それが、あのとき頂点に達していた。……今も」
「え……」
少年は、驚く少女の肩に額を押しつけた。キサーラは以前同様あわてたが、やがてかすかに笑みを浮かべ、オースティンの黒い髪を撫ではじめた。泣く子供を慰めるように、温度の低いてのひらでさする。少年はまぶたを降ろした。
「オースティンさまは、思ったより子供ですね」
少女の肩は、乾いた草の匂いがした。死んだ《赤の庭》の匂いである。
To be continued.