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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第4話「眠れる森で君を待つ」(3)

 皇都ファテープルは雨季に入った。

 当然、雨が多くなり、空気は始終しめっぽくなる。乾季は気温が高くてもさほど不快ではなかったが、雨季が盛りに向かうごとに、《赤の庭》での眠りが苦行に変わってきた。

 最大の難点は服である。オースティンはアレンを待ちはじめてからというもの、くだんのシャツばかりを着ていたため、すでにあちこちが擦り切れだし、色も落ちてしまった。着たきりだと洗濯も問題で、乾季のあいだは夜のうちに洗わせておけば朝には着られたが、雨季に入ってからはちっとも乾かない。意地を張りつづけることに意義がある以上、今さらラージャスタン衣装にも着替えられず、さしものオースティンも少し後悔した。

 マーリの部屋を辞し、自分の部屋に戻ってきた彼は、着替える前にシャツの匂いを嗅いだ。わかりきっていたことだが、生乾きの匂いがする。トゥルカーナから旅してきたときも、三週のあいだ同じ服を着どおしだったが、まさか旅行以外にこんな目に遭おうとは。しかも、トゥルカーナ公子でラージャスタン皇女婿たる自分が。自分で決めたこととはいえ、どうも情けない。

 廊下に出てみると、あたりには雨の匂いがたちこめていた。朝から雨足が強いようで、《英雄の庭》の水路が氾濫している。おそらく《赤の庭》も似たようなありさまだろう。オースティンは、今日は一日じゅう書庫にいようと決めた。雨でからだを冷やし、風邪でもひいたら元も子もない。

 サイアト宮の書庫へ行き、《赤の庭》で過ごすときと同じに床に寝転んだ。手の届く場所にある書物を適当にとり、飛ばし読みする。たまたま開いた本は薬学の文献で、専門性の高い内容だったためほどなくして飽き、結局いつものように目を閉じた。

(——オースティンさま)

 懐かしい乳兄弟の声が聞こえる。(オースティンさーまー。……はー、またしても書庫でしたか……)

 目を開ける。

 乳兄弟はいない。

 ——ばかが。遅すぎるぞ、アレン。

 オースティンは長い息を吐いた。もうすぐ、アレンがラージャスタンでの奉仕を拒否したという知らせから、三ヶ月が経過する。すなわち、オースティンはそれだけの時間を空費したのである。もともとそんなに活動的ではないが、一年の四分の一強をひたすら怠惰に暮らしていたことは、己を省みずにはいられない事実だった。あのまぬけな父大公もびっくりである。

 けれど、もうあとには退けない。幸い、雨が降っているせいで眠気にはこと欠かなかった。オースティンは大理石の床の上で丸くなる。最近ではラージャスタン式の硬い寝台にも慣れ、羽虫の舞い飛ぶ庭も寝床にしていたので、もはやどこにいても寝られる。トゥルカーナ公子でありラージャスタン皇女婿である者が身につけるべき技能ではない気もしたが、万が一のときには便利だろう。

 例えば、アグラ宮殿を追いだされて路頭に迷ったとき、はたまた告発されて暗い部屋に放りこまれたときなどだ。果たして、現実にそうなるのと、アレンがファテープルにたどりつくのと、どちらが早いか。

 あながち冗談でもない想像に辟易していると、入口のほうで物音がした。

「オースティンさま。こちらにおいででしょうか?」

 ライラである。眠気は飛んだが、オースティンは反射的にそら寝の体勢をとった。

 彼女はゆったりとした足どりで、通路のひとつひとつを確認しつつ近づいてくる。雨の日独特の重い空気のなか、軽やかな鈴の音が響いた。あの、鈴のついた布靴だ。

「……」

 少年は大儀そうに起きあがる。「ここにいる、マーリ。何の用だ」

 呼ぶと少女は、オースティンのほうへやってきた。ライラはまず床に放置してあった薬学の文献を本棚に戻すと、オースティンの前にひざまずく。

「何ごとだ?」

 少年は尋ねた。ここがムリーラン宮で、彼女がライラとして行動していたのなら、このまま額づきかねない深刻さがある。とっさに立ちあがると、少女はオースティンをまっすぐに見あげてきた。

「申しわけありませんが、オースティンさま」

 ライラは凛としたまなざしで告げる。「これより、礼装にお召しかえいただきます。ムリーラン宮のお部屋に用意しておりますので、ただちにお帰りくださいませ」

(……恐れていたときが来たか)

 オースティンはひとりごちて、わかった、と短く返した。それから、書庫をあとにし、足早にムリーラン宮へと続く回廊を行った。

 自室に戻ると、久々に会うファンルー・イーリがいて、真っ先にオースティンの命に背く無礼について許しを乞う。少年が黙ってうなずくと、《五星》第三席のシーリエ・イーリが入ってきて、手際よく仕事を始めた。オースティンは顔や手を浄められたあと、ラージャスタン式の礼服を羽織わされ、例によって大量の装飾品をまとわされた。

 支度がすむと、《五星》の三人——メアニー・イーリは失敗が多いので今日は外されたのだろう——に先導されて、部屋を出た。サイアト宮やフェイジャ宮にむかう廊下とは反対方向、《五星》の生活する一角を通り過ぎ、日ごろはめったに訪れる機会のないムリーラン宮の奥の奥へと、四人は歩いていく。

 長い廊下が尽き、四人は庭園に降りた。白い石の敷きつめられた、殺風景な庭である。

 ここを《皇帝の庭》という。

 白い庭は大気まで白く、濁っている。四人は、まとわりつくような霧に包まれ、足を止めた。

 霧の先に、少年がたたずんでいる。庭の主に仕える彼は、華奢で儚げな容姿をしており、髪や瞳の色も薄く、今にも霧の彼方に消え去りそうである。

「ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティン」

 少年は、一行にむかって手を差しのべる。「陛下がお待ちです」

 オースティンはその手をとり、空いたほうの手にファンルー以下三名の女官が続いた。少年は、五人がひとつながりになったのを確認して、では参りましょう、と声をかける。オースティンと《五星》三人は、少年に従って足を踏みだした。

 直後、オースティンの全身を精霊の気配が駆け抜けた。ムリーラン宮の奥宮を守護する、火(サライ)の結界だ。案内人の手の甲には火(サライ)の印が彫られており、それがない者、すなわち招かれざる客は、結界に入りこんだ刹那、処分される仕組みである。オースティンすら、案内人なしにここに来れば、招かれざる客として扱われるにちがいなかった。

 アグラ宮殿の外郭に張られている結界の火(サライ)は階級でいうと二級、オースティンなら壊せる程度のものだが、さすがにムリーラン宮の奥宮ともなると一級以上——元素精霊長に近い立場の上級精霊で、歯がたたない。もっとも、これに対抗できる精霊を使役する者など、大陸中で十人にも満たないだろうが。

 敵う者なき強大な《炎》が、包み隠すもの。それこそ、今オースティンが面会に行こうとしている相手に他ならない。

「結界を越えました。もう大丈夫です」

 言われて、オースティンたちは互いの手を離す。

 見ると、眼前に楼閣がそびえていた。今の今まで霧——すなわち水(アイン)の手のなかに隠されていた楼閣が、火(サライ)の結界を通過して初めて客の前に姿を現したのである。《皇帝の庭》の主たる人物は、アグラ宮殿の外壁に仕掛けられた結界をはじめ、いくつもの結界によって守られている。

 主人と少数の従僕が出入りするこの楼閣は、通称《翡翠の楼閣》という。正式にはターズ楼という名称だが、あちこちに翡翠をあしらってあるため、そう呼ばれる。とはいえ、ターズ楼で皇帝に奉仕できる女官は《五星》のみで、従僕でも《五望》といわれる男性版《五星》の身分にならない限り《翡翠の楼閣》を知ることはない。アグラ宮殿内でも、その名を口にできる者はほんのひと握りである。

 案内人は、楼閣の入口までオースティンたちを導いていくと、扉の横にさがっていた小さな鐘を鳴らした。白い霧に覆われた異様な空間に、カーン、カーン、と乾いた音色が響きわたる。ややあって、楼閣の内側から扉が開かれた。案内人は低頭し、オースティンら四人を見送った。

 楼閣に一歩踏みこむと、内部は白と黒と淡い緑の三色で統一されていた。白は大理石、黒は黒瑪瑙、淡い緑が翡翠である。床や壁、天井は大理石と黒瑪瑙を組みあわせた模様になっており、翡翠は灯籠や細部の装飾に使われている。他の宮殿の多くが火(サライ)を象徴するような赤い砂岩造りであることを考えると、《翡翠の楼閣》はアグラ宮殿内では異色の建築といえた。

 次なる案内人も、線の細い少年だった。おそらく彼らも慈善園の卒業生であり、もともとは孤児だったのだろうが、それにしてもターズ楼付の従僕は外見に偏りがある。今にも卒倒しそうな色の白さで、下僕としては使い勝手が悪そうなものだが、主人は彼らの働きぶりよりも趣味を優先したのかもしれない。

 案内人の儚い背中を追って螺旋階段を昇り、楼閣の最上階にたどりつく。案内人と三人の女官はまったく息を切らしていなかったが、運動不足のオースティンはひとり、笑う膝を堪えながら必死で足を動かしていた。部屋の奥に主人のいる御簾が目に入ったとき、オースティンは距離をはかって首を垂れる。少し下がった位置で、《五星》三名も額づいた。

 そこで、案内人の少年が奏上する。

「皇帝陛下、ムストフ・ビラーディ・オースティンが参上されました」

「案内ご苦労」

 御簾のあちらにいる人物が、そう応じる。「下がりなさい」

 少年はすばやく踵を返し、長い螺旋階段へと戻っていった。

 楼閣の主は、案内人の足音が遠ざかるのを待って告げる。

「待ちわびたよ——我が子、オースティン」

 オースティンの予想に反して、その声は明るかった。「顔をあげなさい、愛しい息子よ。ファンルー、シーリエ、ライラ……、おまえたちも楽にしてよい」

 命じられて、少年は御簾越しに皇帝を直視する。すると、御簾のむこうで、相好を崩す気配がした。

 ザーケンニ・マキナ・ラージャスタン。それが、その人物の名前である。彼こそがオースティンの妻の父親にして少年の舅、この地において皇女マーリに優越する権威をもつ唯一無二の人間、《皇帝のおわしますところ》ラージャスタンの支配者——皇帝(ラージャ)・ザーケンニ七世。

 オースティンが皇帝に拝謁するのは、これで二度めになる。

 一度めは婚礼の翌晩で、そのおりもオースティンは結界を越えて《翡翠の楼閣》を訪れた。が、皇帝はやはり御簾の陰にいて、ついに容貌を明らかにしなかったので、表で皇帝として振るまっている影と本人が似ているかどうかすら、少年にはわかりようがなかった。娘をもつ父が一般的にするように、オースティンら夫婦を祝福し、婚礼を早めたマーリのわがままについて謝りはしたけれど、とりたてて注意すべきこともなかった。

 あれから三か月以上が経っているが、皇帝が娘婿を呼びつけたことはその後一度もない。オースティンがマーリの名前を使って《五星》に要求を突きつけたときも、特に咎められることはなく、オースティンが《赤の庭》に居座って宮殿付庭師の仕事を奪っても、日がな一日眠りつづけても、皇帝は沈黙していた。

 オースティンが気に食わないのか、関心がないのか知らないが、当面、少年は気が楽だった。これまでの経験では、オースティンを娘婿にしようとする者のなかには、娘本人以上にべったりと少年に張りついてくる者が多かったし、放っておかれるぶんには全然かまわなかった。

 しかし、同時にひどく気がかりでもあった。沈黙しているということは、呼びつける気もしないほどに怒りが深いのかもしれない。それは、あるとき前触れなく爆発し、オースティンを宮殿から追いだすのかもしれない。そう考えると、一時の気楽さは吹き飛び、落ちつかなくなった。頑固に要請を拒みつづけるアレンが恨めしかった。

 その矢先の呼びだしである。オースティンは、どうやって皇帝の怒りをなだめようかと、思案しながらやってきた。

 そして今、オースティンはちがう意味で途方に暮れている。

「オースティン、おまえはまだ《赤の庭》を占拠しているそうだね」

 と、皇帝は愉快そうに言った。「おまえの乳兄弟は乳兄弟で、まだ拒みつづけていると聞く。まったくかたくなな二人組だよ。同じ乳で育っただけあり、似たもの同士なのだな」

「はあ、……恐縮です」

 他に答えようがなく、少年は苦笑がちに返事をする。皇帝はまた、ふふ、と笑った。

(なんでこんなに機嫌がいいんだ?)

 オースティンは戸惑った。予定外すぎて気持ちが悪い。せっかく、怒りをやわらげる謝辞と、己の問題行動を正当化する主張と、ラージャスタンは必ずしもトゥルカーナに対して強い立場ではないという主旨の皮肉を準備してきたというのに、使うあてがなくなってしまった。久々に戦う気概充分で出向いたのが、あほらしくなってくる。

 けれど、油断してはならない。やわらかい言いまわしが、急に刃に変わることもある。オースティンは姿勢を正し、気分を引きしめた。

「今日はひとつ、提案があって呼んだのだよ」

「提案……、ですか」

(来たな)

 オースティンはにわかに臨戦態勢になる。

「聞いてくれるかね?」

「ものによります」

 少年は即答した。猫をかぶる気がしない。古狸と化かしあいなど、誰がしたいものか。

「賢明な子だ、オースティン」

 皇帝の声は揺れない。依然として、一定の穏和さと機嫌のよさを保っている。「——ツォエル、出なさい」

(『ツォエル』)

 どこかで聞いた音である。少年は首をひねった。女の名前だったか。ところが、

「御意にございます——皇帝陛下」

 応じた声は、低い男の声だった。

 隣室からひょっこりと現れ、少年の前にひざまずいたのも、やはり男である。二十歳過ぎかと思われる、落ちついた風貌の青年だった。オースティンは彼に、顔をあげるよう促す。静けさと穏やかさをたたえた黒い瞳が、ゆるやかな所作で少年を見あげてきた。オースティンは遠慮なく彼を観察する。男は困ったように微笑んだ。

 オースティンの見るところ、この男には三つほど気になる点がある。

 ひとつは服装だ。紺の詰め襟にズボンという組みあわせは、ラージャスタン式ではないものの、ラシュトー大陸ではごく一般的な服装といえる。感じからして、外国の高等学校で着る制服ではないだろうか。二十歳を越えた者が高等学校というのは変わっているけれど、入学が遅かったとかどうしても卒業試験に通らないとか、あるいは単に外見が老けているとか、理由はそれなりに考えられる。

 もうひとつは、頭にかぶった銀の冠である。庶民の男が冠を身につけることは、大陸東部ではめったにないが、西部や北部においては珍しいわけでもないという。この服が本当に学生服だとすると、この冠も学校での身分を示す、いわば制服の一部だろう。さらにいうと、冠の中央に光る石はトゥルカーナの特産品で、クーヴェル・ラーガ——東言で《青い石》を意味する——という名の貴石だった。資源に乏しいトゥルカーナでは唯一の鉱物資源なのだが、深い青が水(アイン)を彷佛とさせるのか、火(サライ)崇拝の根強いラージャスタンではあまり好まれない。クーヴェル・ラーガを買いたがるのは、たいがい四大精霊崇拝の国である。

 その二点から推測すると、この男は四大精霊崇拝の国出身の学生、ということになる。しかし、いちばん重要なのは残るひとつだった。

「おまえは、火(サライ)……《炎》に包まれているな」

 オースティンはつぶやく。よくよく見なくとも、青年のからだじゅうに火の精霊(サライ)がまとわりついていた。何の用途に火(サライ)を使ったか知らないが、精霊は青年の皮膚すべてを覆っており、この《炎》の気配に満ちたアグラ宮殿でもなお、異和感は明白である。

「さすがは《英雄の現身》オースティン公子殿下でいらっしゃいます」

 青年は、婉然と微笑んだ。「ラージャスタンを守護する我らが炎も、あなたさまの眼はごまかせない、ということでしょうか。それとも、炎があなたさまを愛するゆえでしょうか」

 彼の笑みに、オースティンは戦慄した。なぜかはわからないが、男の心を騒がさずにおかない艶がある。男が男にある種の色気を感じるなど、あまり愉快な状況ではなく、

(……いや)

 それで、ようやく少年は思いだした。(こいつは——やはり)

「それにしても、精霊というのはさまざまな使い道があるものだ」

 おもむろにオースティンは言う。「ぜひ一度、教えを乞いたいな」

「偉大なる炎の力は、むろん一側面に限ったものではございませぬ」

 男は満足げに答えた。「わたくしは、幼いころより我らが皇帝陛下のお恵みにあずかり、多岐にわたる精霊の発現を学ばせていただきました。ムストフ・ビラーディがお望みならば、いつでもご覧に入れましょう」

「それはありがたい」

 少年は口角をあげ、それから切り返す。「——さて、いいかげん、《五星》筆頭たるおまえの美しさを拝ませてくれないか?」

「これは失礼をいたしました」

 男は胸に手を当てる。そこに、ゆらめきが生じた。胸にあらわれたゆらめきは、青年の腹や肩、腕、足と伝わっていき、彼の全身へと行き渡る。ゆらめきが消えたとき、青年の姿も失せていた。あたかもからだの表面を炎に焙られたかのようだった青年は、精霊の洗礼を経て生まれ変わり、美貌の女となった。

 やわらかな亜麻色の髪に、朱色がかった茶色の瞳。アグラ宮殿の平均的な女官の装いに、階級を表す袴の色は最上の紫。一介の下僕であるにもかかわらず、誇りと自信に満ちあふれており、どことなく傲然とした風情の、けれど見る者に不快感ではなくむしろ恐怖を与えるその女——《五星》筆頭にしてアグラ宮殿付女官頭、ツォエル・イーリ。

 オースティンは覚えず息を呑んだ。男としてはその美しさに、人としては蛇ににらまれた蛙のごとき心境で、自然と感想が口をついて出た。

「……おまえの美しさに勝る姫君は、どこにもいまいよ」

「まあ、ムストフ・ビラーディ、よろしいのですか」

 ツォエル・イーリは、ほほ、と笑みをこぼす。それでいて、彼女の殺意にも似た鋭い気は、微塵もやわらがない。「姫君のお父上が、そこで聞いておられますよ」

「よい、よい」

 彼女のひと言に、皇帝は破顔した。「確かに、ツォエルの美しさは類い稀だよ。老若男女、ツォエルを見て驚かぬ者はない」

 二人はさも親しげに言葉を交わした。他の《五星》が、面はあげているとはいえ床に手をついたままだというのに、筆頭ともなると別格らしい。あるいは、これだけ美しいのだ、ツォエル自身が皇帝にとって別格なのかもしれない。古今東西、身辺の世話をする侍女といえば、支配者にとっては第一の愛妾候補である。噂では、ザーケンニ七世は亡き妃と娘マーリを溺愛するあまり、新たに妃を迎える意欲がないのだというが、これを見ていると疑わしい。ツォエルは女官頭であり、アグラ宮殿においては重要な地位にはちがいないけれど、しょせん出は孤児である。皇帝が強権を発動するならばいざしらず、通常は妃の座に就ける身分ではない。

(しかしまあ)

 オースティンは皇帝とツォエルのやりとりを眺めながら、内心ひとりごちる。(こんな女を始終そばにおけるというのなら、舅殿は父と同じ愚鈍な豚か、さもなくば)

 大物中の大物、筋金入りの古狸か——。いずれにせよ、ムリーラン宮の狸はこの老人であり、この女である。それはオースティンの直感だった。老人自身が狸か、老人は豚で女が狸かは、さほど問題にはならない。ムリーラン宮には、とりわけターズ楼には警戒を怠ってはならない、ただそれだけだ。

「それで、ツォエル・イーリ」

 オースティンは口を切った。「おまえのかぶっていた皮が、陛下のご提案に何の関係がある」

「ええ、ムストフ・ビラーディ」

 ツォエルはうなずく。「今の青年は、エルン・カウニッツという、ロータシアの名門理学院の学生でございます」

 ロータシアとは、プリエスカを建国したコルバ家が百年以上前に滅した、かつての帝国である。ラージャスタンはロータシアと縁が深く、それゆえにプリエスカという国家を認めておらず、いまだにその地域に関してロータシアという呼称を使うことも多い。ロータシアもプリエスカも、何かしら相違点はあるものの四大精霊崇拝の国家であり、「四大精霊崇拝の国出身の学生」というオースティンの推測は当たっていたことになる。

「ときに、殿下。ご婚礼のおりはお手伝いできませず、申しわけございません」

 ツォエル・イーリは謝罪とともに低頭した。「わたくしは陛下のご内意を受け、ブリエスカに単独で潜伏しておりましたため、帰還が叶いませんでした」

(プリエスカに……潜伏?)

 彼女のひと言に、オースティンは呆気にとられる。

「それは女官の仕事か?」

 問うと、代わりに皇帝が答えをよこしてくる。

「我が息子、私はツォエルならそれができると判断したのだよ」

「はあ」

 結局、ラージャスタンの戦争はまだ終わっていないのか。「それで、何のために?」

「ええ」

 問われて、彼女は続けた。「陛下は休戦協定成立後も、かの家との関係にお悩みあそばされました。皇帝陛下の願われるところは、ラージャスタンの安寧と大陸の平穏でございます。けれど、かの家がわたくしどもを憎む限り、それは実現いたしませぬ」

 ツォエル・イーリは適度に情感をこめて説明した。

「そこで皇帝陛下は、バチア地方を手放したことに引き続き、かの家に歩み寄ろうとなされています。かの家と教会の望みは、わたくしどもの土地に棲まう精霊でございますから、こたびは何らかの方法でそれを実現しようと思し召されたのです」

「ふん、それで?」

 歩み寄るといいつつも、コルバ家という固有名詞を口にしないあたりに、狸らしい意図が見え隠れしている。

「皇帝陛下のお考えは、留学生をラージャスタンに招く、というものでした」

「留学生?」

 どうしてそうなる。オースティンは理解に苦しんだ。

「現在かの家が運営している理学院という高等学校には、国内で唯一、召喚学部なる、精霊召喚を専門に教える学部が設けられております」

「召喚を? いったい何を教えるんだ、その学部は。召喚は誰にでもできるものではないし、できる者にとっては知るべきこともないだろう」

 精霊に愛されるかどうかは、ほぼ運である。理論を習得したところで、愛されない者はどうしようもない。オースティンは《英雄の血》をもつ者として、物心ついたころには精霊を使役できたが、それは誰に教わったことでもなかった。

「それはおっしゃるとおりでございますが、できない者はできない者なりに努力するもの。その努力が、前の戦のおりには威力を発揮したのです」

「ふん、それもそうか」

 オースティンはそういう努力をしたことがない。仮に自分が精霊の愛に浴さない人間だったとして、喉が嗄れるまでその愛が欲しいと叫びつづけたなら、精霊が使役を許すこともあるのだろうか。そうして愛を求める人間こそ、愛を得るにふさわしい人間だろうか。精霊の話に限らず、人間同士でも……。

「前の戦のおりに活躍し、わたくしどもからすると苦戦と戦争長期化の原因となった召喚士は、みな理学院召喚学部の卒業生でございました。つまり、かの家と教会が精霊を欲するということは、すなわち、召喚学部の学生に精霊の力を与えよということ。その望みを叶えるための、留学生招待なのです」

「しかし、理学院の留学生は、ラージャスタンに来て精霊と親しみ、国に帰ったのちはその力でラージャスタンを攻撃するだろう」

 少年は間髪入れずに尋ねる。「それを知っての招待なのか?」

「むろんでございます。ですが、妥協と申しますのは、相手方の望みに歩み寄るということでございます、ムストフ・ビラーディ。それに、留学生を招くことが、即座に協定破棄を意味するわけではありますまい。彼らはわたくしどもとかの家の架け橋になってくれましょう」

「それで、オースティンに頼みたいのだよ」

 皇帝が口を挿んだ。オースティンは舅に向き直り、

「僕を招待の口実に使うと?」

「それもある、が」

 皇帝は御簾を払いのけ、少年の前に姿を現した。ライラやマーリと同じ、すみれ色の瞳。

「彼らの友人になってもらいたい。そして君は、留学生と我が娘とともに、ブリエスカとラージャスタンの親交の礎になるのだ」

 ザーケンニ七世は、こうも付け加えた。「——ことがうまくいくようであれば、自ら乳兄弟を迎えにいくことを許そう。どうかな?」

(自ら——)

 瞬間、頭が真っ白になった。(アレンを迎えに)

 乳兄弟恋しさを、プリエスカの学生を呼び寄せる口実に利用されることも、プリエスカの学生もまた国家間の親睦云々以上に利用されるのだろうことも、その言葉を聞いたとたんにどうでもよくなった。アレンの首根っこをつかんで、ラージャスタンで自分に仕えろと、直接命じることができる。

 だが、浮き足だっていることを悟られると、こちらの立場が弱くなる。オースティンは深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。

「なるほど、悪くないお話です」

 少年は、極力淡々と応じる。

「そうだろう? これが上々の結果を導きだすならば、私は長年の悩みが晴れ、君もうれしい。さらには、大陸には真の平和が訪れる。よいことづくめだ」

 皇帝はにこやかに語った。道理で、オースティンを叱るどころか、妙に上機嫌だったはずだ。

「では、陛下がお考えになる一連の流れはこうですね」

 オースティンは念を押す。「ムストフ・ビラーディ・オースティンは、ラージャスタンに婿入りしたはいいが、故郷恋しさに元気がない。陛下は娘婿を元気づけるため、またブリエスカとの関係を改善する布石として、僕と同じ年ごろの学生数名を宮殿に招き入れる、と」

 皇帝はすみれ色の眼を細め、義理の息子の肩を優しく叩いた。どうやら正解のようである。

「ご賢察でございます、ムストフ・ビラーディ」

 ツォエル・イーリも、そういって少年を褒めた。オースティンは唇を皮肉に歪ませて、

「もう先方とは話が決したとみえる」

 と、言ってみる。ツォエルはプリエスカに長期間潜っていたという。あの黒髪の青年——「エルン・カウニッツ」とやらは、おそらく留学の権利を射止めた者か。

「おっしゃるとおりですわ」

《五星》筆頭はあでやかに微笑する。「すでに理学院召喚学部Aクラスからの留学生四名、選抜ずみでございます。内訳は男子学生三名に女子学生一名。名前をあげますと、ルッツ・ドロテーア、ニカ・メイシュナー、メルシフル・ダナン、それに女子がセージ・ロズウェル。いずれも優秀な学生でございまして、特にメルシフル・ダナンは妖精憑き——しかも、《禁じられた第六の元素》空(くう)を従えています」

「《禁じられた第六の元素》?」

「はい、ムストフ・ビラーディ」

 ツォエルは順序だてて解説する。万象を司る精霊王は、火、水、風、土の四大元素については、人が操ってもよいとした。が、一方で、危険性などを理由に人が使うべきではないとした元素もあり、そのうち古い文献に記述のあるものが時と空である。時を《禁じられた第五の元素》、空を《禁じられた第六の元素》という。

「選抜試験の際、わたくしは聞いたのです。試験の内容は、三回の精霊召喚でしたが……、メルシフル・ダナンが召喚してみせた、青い髪と瞳の、美しい妖精の言葉を」

 ——俺のことは、きさまたちは知らないだろうな。俺は空(スーニャ)の唯一無二の精霊で妖精(エルフ)、つまりは空(スーニャ)の元素精霊長である。空(スーニャ)とは、人間による使役を禁じられた元素のひとつ。この世で俺を使役できるのは、我が主メルシフルだけ。

「ブリエスカはその学生を行かせると?」

 オースティンは信じられなかった。すでに元素精霊長を従えているのであれば、新たにそれ以上の力を獲得することはないだろう。ということは、成長を望む必要がないわけであり、召喚学部生としての留学など無意味である。それに何より、元素精霊長の妖精憑きというあまりにも貴重な例を、みすみす国外に放つだろうか。しかもよりによって、敵対関係にあるラージャスタンに。

「メルシフル・ダナンは合格者です」

「そうだ、さっきの『エルン・カウニッツ』というのは?」

「彼は不合格者ですわ」

 返して、ツォエルは伏し目がちに笑う。「もっとも、理学院側の選抜では合格者でしたけれど、いかんせん姫君や婿殿とは年齢が離れております。とても適任とはいえますまい」

「年齢……」

 詭弁だな、とオースティンは声には出さずに断言した。皇帝か、ツォエル・イーリの意思かは明らかではないが、欲しかったのはより強力な精霊使いにちがいない。何しろ、元素精霊長の妖精憑きともなると、他のどんな属性の、元素精霊長を除くどんな階級の精霊も、その精霊を喰ったり害したりすることはできないのだから。

 いってしまえば、大陸で最強の精霊使い。その最強の精霊使いをラージャスタンに呼んで、いったい何をするつもりなのか。考える気にもならない。

(こんな話にのるプリエスカもプリエスカだ)

 それほどに、休戦協定を破棄したいのか。そうでもしないと、おさまらないのか。

 ——いやな情勢だな。

 オースティンはうんざりしながらも、アレンに会いにいけるという条件には抗しがたかった。少年が行動をとろうがとるまいが、戦争は始まるときに始まるのだ。マーリ即位後ならば、女帝の婿として何かしら阻止する算段もあろうが、今は妻の名を利用する以外は何の権限ももたない身である。

「わかりました」

 と、少年は返事した。「陛下の願いに、力を尽くします」

「おお、そうか」

 皇帝は満面笑顔になる。優しげな笑みは、娘によく似ていた。「では、あとのことはツォエルに聞きなさい」

「はい、陛下。——ツォエル、よろしく頼む。それとこの機に、ライラ以外の女官の近侍を許す」

 オースティンの宣言に、背後で控えていたファンルーが驚き、問うような視線を投げてきた。少年は横目で三人の《五星》女官を見て、軽くてのひらを振ってみせる。

「これで、アレンの件は決着したも同然だからな。だが、公務についてはこれまでどおり放棄する。理由はわかるな?」

「はい——ムストフ・ビラーディ」

 ファンルーは安堵の息をついた。隣にいるシーリエの顔も、どことなくほころんでいる。

 オースティンはオースティンで、正直なところほっとしていた。公務にも等しい重大な仕事が、少年の逃避とわがままを意味づけるのである。もはや皇帝の怒りを恐れる必要もなく、皇女やライラが招いた客人を気づかったり弁解したりする必要もない。オースティンは正々堂々眠っていられるのだ。

 そのうえ、留学生の扱いをまちがえなければ、自分でアレンを呼びにいける。たとえ、この務めが戦争再開への契機になりうるとしても、乳兄弟には代えられなかった。乳兄弟自身は憤慨するかもしれないけれど、少なくともオースティンにとってそれより重大なことはない。

 オースティンは、彼がラージャスタン入りして以来はじめて全員揃った《五星》と連れだち、皇帝の住処を辞した。螺旋階段を降り、《皇帝の庭》に張られた結界を通過し、長い廊下を渡ってムリーラン宮の部屋に帰っていく。

 自室にたどりつくと、まず真っ先にアレンのシャツに着替えた。故郷を懐かしむ者を演出するために、今後もこれははずせない。すでに着古しすぎていたが、仕方がなかった。

「さて、留学生がやってくる時期でございますが」

 着替えが終わると、ツォエル・イーリが話しはじめる。「申しわけありません。帰還に時間がかかりまして……、もう日がないのです」

 極秘任務ゆえ、徒歩でプリエスカに潜入したのだと、《五星》筆頭は語る。グレナディン・ファテープル間を走破するクットブラ鉄道を使えば早かったが、そうすれば十中八九、理学院側に潜伏が知れてしまうだろうから、と。オースティンは呆れた。そんな真似までできるとは、いったい慈善園とは何を養成する機関なのか。

「で、いつだ?」

 オースティンは訊く。

「あちらでいうところの早春、『第一の火(サライ)の月』中旬に出発の予定でございます。わたくしどもの暦では雨の月、つまり来月になります」

 現在は雨の月の前月「土の月」の下旬である。

「——は」

 少年は開いた口が塞がらない。前にも同じような目に遭った覚えがあるけれど、自分は何かと心の準備期間が与えられない定めなのだろうか。

「到着まではあと二十日ほどでございます」

「わかった。まあいい、僕はどうせ寝ていればいいだけだ。おまえたちはせいぜい、部屋の準備なり何なり急げよ」

「はい、ムリーラン宮の四部屋をあてがう手はずになっておりますので、そこに寝具を運び入れ……」

「ちょっと待て」

 オースティンはツォエルの発言を遮った。「客舎のまちがいだろう?」

「いいえ、ムリーラン宮でございます。ムストフ・ビラーディにおかれましては、公私にわたり彼らと懇意にしていただきたく存じます」

「……」

 少年はさっそく、アレンと引き換えに皇帝の頼みを引き受けたことを、後悔しはじめていた。何の狙いで、プリエスカ人をアグラ宮殿の秘奥に踏みこませるのか——。皇家の影の件をはじめとして、ムリーラン宮には外国人などでは触れえない国家機密が満ちている。いたいけな学生たちが狸どもの謀略に巻きこまれるだろうことは容易に想像できたし、その学生たちと仲よくやらなければならないことを思うと、目がくらんでくる。

 ——ゆめゆめ、おかしなことに巻きこまれませんように。……

 結婚前、他ならぬアレンがそう言った。

(おまえのせいだろうが、阿呆)

 少年はここにはいない小姓に毒づく。

「ですが、ムストフ・ビラーディ、今回のことは、何もあなたさまにとって厄介なことばかりではない、と思われます」

 隠さずに嘆息するオースティンに、ツォエルは口の端をあげてみせた。

「むろん、乳兄弟の件はありがたいと思っている」

「ええ、その件もございますが……、先ほどお話しした空の元素精霊長のことです」

「《禁じられた第六の元素》なら、僕より陛下のほうが関心がおありだろう」

 オースティンは刺々しく言い返す。ツォエルは首を横に振った。

「いいえ、そうではありません」

「では何だ」

「——古い民話でございます」

 ツォエル・イーリは静かに告げる。「信憑性のあるなしは別といたしまして、時や空についての記述はそれなりに残っておりますが、その中にムストフ・ビラーディと関係が深いかと思われるものがあるのです」

「僕と? ……」

 オースティンは怪訝なまなざしを女官に向けた。《五星》筆頭は、少年の興味を惹けたことに満足したようで、わずかに笑みを浮かべる。

 女の物語に聞き入りながら、少年は悟った。自分がこの一件に巻きこまれることになったのは、自分のわがままや過ちのせいではなく、まして乳兄弟の強情のせいでもない。人生とは、それぞれに何らかの問題を抱え、それに沿って進んでいくよう定められているものであり、……すなわち、これは運命なのだ。

 運命がプリエスカ人を連れてきたことに敬意を表し、四大元素崇拝的にいうのならば、精霊の祝福によって自分は彼ら二人に出会う、ということになるのだろう。

 一人は《メルシフル・ダナン》という名の歳若い学生。

 ——そしてもう一人、彼に従属する、空の元素精霊長たる妖精に。

 

To be continued.

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