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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第4話「眠れる森で君を待つ」(4)

 プリエスカから王立理学院召喚学部の学生を迎えるにあたり、アグラ宮殿は活気づいた。

 とりわけ、日ごろ行き来する者の少ないムリーラン宮の変化は顕著である。普段は《五星》および《五望》——男性版《五星》——しか足を踏み入れてはならないという掟により、その広大さもあいまってもの寂しいのだが、留学生居室整備の人手として特別に下級従僕の出入りが許可されることになり、後宮内は珍しく喧騒に包まれた。

 オースティンは相変わらず公務に着手しなかったものの、《赤の庭》に居座るのはやめた。いずれアレンを連れだしにいけるとなれば、天候が不安定な時期に日がな一日外にいようなどとは思わないし、何より外国人を招待する以上、庭園を荒廃させたままにはできない。対外的に皇帝の権威を貶めるわけにはいかないのである。「故郷を恋しがる皇女婿を慰めるべく留学生を招致する」という名目のため、オースティンはまだまだ庭園で眠っている必要があったけれど、とにかく整備はしなければならない。

 少年はツォエルらに命じ、改めて宮殿付庭師に仕事を与えさせた。庭師らが嬉々として働いているあいだ、オースティンは書庫に入り浸ることにした。ツォエルのいっていた民話を探すのである。調べたところ、サイアト宮の書庫は一般に流通している書物が中心で、貴重な文献が集められているのはもうひとつの書庫——ムリーラン宮のほうだった。ふだん出入りする人間が限られているだけあり、国家の成立に関わる文献や、ラージャスタンの核ともいえる火(サライ)の物語などが大量に収められていた。活字本はほとんどなく、大半は生の原稿そのもので、しかしオースティンは蔵書のすばらしさよりも、ここがプリエスカ人の学生たちにも開放されるのだろうことを考えた。

(別に、プリエスカ人がどうなろうと、僕の知ったことじゃないが)

 少年は書架に目を通しつつ、まだ見ぬ留学生に思いを馳せる。(……いい気分はしない)

 オースティンは一冊一冊手にとって、内容を確かめていく。手書き原稿は文字の判読が困難で、おおまかな把握すら手間だった。

 一日め、彼の求める民話はみつからなかった。二日めも発見できず、オースティンは早くも疲れを感じだした。三日め、目的物が見当たるより先に、《赤の庭》の作業が完了してしまった。少年は民話の調査をあきらめ、花々が鮮やかに色づく庭へ、身を投げだした。

 オースティンは芝生の上を転がり、瑞々しい草の匂いを吸いこんだ。乾季の終わりに枯れ果てた庭は、庭師の手によってすっかり蘇っている。ただし、雨季の花は目を惹くほどの赤さがないようで、新生《赤の庭》は、一部に赤い花があしらわれつつも、ごくありふれた色とりどりの庭園となっていた。いずれにせよ名前に相応しくない気もするが、放置され、荒れているよりはましである。

 少年は寝転がったまま、空を見渡した。

 今日はとても晴れている。空の青さも、雲の白さも、同じように濃い。

 雨季の最中は、またいつ突然雨が降りだすかわからないのだけれど、きっと今日は——一日中晴れだ。

「おい、そこの」

 オースティンは、通りがかった女官に声をかける。青い袴を着用した女官は、皇女婿に呼ばれたと気づいてその場に膝をついた。

「マーリを呼んでこい」

 少年が命じると、女官は小さく首を縦に振り、駆けだした。皇家の人間と会話のやりとりができるのは、女官では《五星》だけだ。

 やがて、ライラが早足でやってきた。今日も鈴のついた布靴を履いているとみえ、客舎の方角から涼やかな音色が近づいてくる。オースティンは水路沿いに自分をめざしてくる少女を目で確かめると、勢いよく跳ね起きた。芝生の上であぐらをかいて、彼女が到着するのを待つ。

 ライラの視線と少年の視線がぶつかりあった。彼女は皇女の笑みを浮かべるとともに、彼のかたわらに腰を降ろす。

「お呼びでしょうか、旦那さま」

 皇女のほがらかさで、声をかける。

「——」

 オースティンは一瞬、言葉を失った。「……ああ」

 ——訊きたいことが、ある。

 と、いいだすはずだった。

 けれど、いつもどおり《マーリ》でしかないライラを目の当たりにして、挫けてしまった。「仕事」という言葉を、あらゆる行動の原理とする少女。彼女はまた何もかもを「仕事」に帰し、己をさらけだそうとはしないだろう。彼女自身の片鱗がうかがえたのは、前にまだ影姫の件を教えられていなかったころ、皇帝の呼称を意図的に統一しなかった、たったあれだけのこと。

 たったあれだけのことに、オースティンは望みをかけている。他方で、たったあれだけのことに、絶望の可能性を見いだしもしている。希望と絶望の要素は、どちらにしてもそれだけのものでしかなく、判断材料にはならない。どれだけ思案しても答えは出ず、少年が結論に至るためには、もういちど彼女に問いただすほかなかった。

「マーリ、」

「はい、何でしょう」

「……」

 仮に、明瞭な答えが得られたらどうするのだろう。オースティンの希望に添う返答ならともかく、絶望の決定打となってしまったら。そのときには、アレンがそばにいようがいまいが、自分のからだははち切れるのではないだろうか。望むことさえ許されないやるせなさは、自分を殺すのではないだろうか。

「オースティンさま?」

 ライラはすみれ色の瞳を、不思議そうにまたたかせる。

「——マーリ」

「ええ」

 彼女は首を傾げた。

 オースティンの脳裏に、いつかの宴の夜の光景がよぎる。懐かしい味がする、という少年のひと言で、少女の眼に涙がにじんだこと。オースティンは思わず、

「鹿——」

 と、口走った。

「鹿?」

 ライラはきょとんとしている。少年は、

「……鹿鍋が食べたい。獲ってこい」

 と、思ってもみないことを告げた。

 ああ、と少女は合点がいったようで、

「オースティンさまがご自分からおっしゃるなんて、珍しいこと。お好みのものについて、苦心せずにすみますわ」

 ただちに行ってまいります、とうれしそうな表情で返事をし、足どり軽やかに駆けだした。が、その明るい顔も軽やかな歩調も、すべては彼女の演技であり、彼女にとっては生きる術にすぎない。そう考えると、肝心の話に触れられずにごまかしてしまったオースティンとしては、何もささやかな希望まで絶たなくてもいいのではないか、と思えてきた。

 少年は昼寝場所を変えた。蘇った庭をひととおり巡り、眠るにふさわしいところを探しだす。

 すると一ヶ所、おあつらえむきの場所がみつかった。そこは、庭の中心たる水路から離れているうえ灌木の陰になっており、遠目には非常に発見しにくいのだが、小さな一画が鮮やかな赤い花ばかりで埋め尽くされている。その花弁の赤さは、まさしく《赤の庭》そのもので、雨季の庭では唯一その名に恥じていなかった。

 オースティンは花の上に横になった。多少なりと潰れるだろうが、庭師の仕事を増やしてやるのは悪いことではない。かまわずに、まぶたを降ろす。目を閉じると、代わりに耳と鼻と肌とが敏感になったらしく、庭をわたる風の音と、強くはないが甘やかな香りと、シャツ越しに花を敷いている感触とが、心地よく感ぜられた。

(まあ、いい)

 と、オースティンは思った。(たとえ一生訊けなくても、ライラは一生そばにいる)

 それは、悲しいことなのかもしれない。けれど、少なくとも今だけは、それでよかった。空は晴れ、庭は整備されて美しい。

 少年は眠った。眠っているうちに、プリエスカの留学生が来るといい。篭絡でも何でもしてやろう。そうして、トゥルカーナに出向き、アレンを引きずってラージャスタンに戻り、アレンとこの庭で過ごそう。一生、何も見えてこなかったとしても、この宮殿で楽しく暮らそう。

(……いや、それはできないか)

 夢うつつに、少年はつぶやく。(あの二人が来る。『メルシフル・ダナン』と《空》——、僕の……)

 オースティンの意識が遠ざかる。思考はそこで途切れた。

 

 

 再び目覚めたのは、芝を踏む足音が聞こえてきたからだった。

 それに、呼ばれていた。自分の名が。

「オースティンさま——」

 ライラの声だった。「オースティンさま、獲物はとれませんでしたけれど、代わりにお客さまをお連れしましたのよ」

「ご主人ですか?」

 と、誰かが尋ねた。女の声だが、聞き知った声ではない。アグラ宮殿付女官の数は多く、オースティンも把握しきれていないものの、おそらく女官でもないだろう。ラージャ語の発音にたどたどしさがある。まちがいなく生粋のラージャスタン人ではないし、仮にトゥルカーナ出身の孤児だったとしても、キサーラはそれを悟らせない程度には訓練されていた。よって、女官でも慈善園の生徒でもない、外国人の女だ。

 しかし、鹿を狩りにいって拾えるような外国人とは、いったいどんなものか。しかも、獲物の代わりに連れてきた客というからには、客を迎える際に必要な手続きを踏まず、独断かつ内密に連れこんでいる、ということだ。もしもアグラ宮殿にとって危険な人間だったら、ライラはどうするつもりなのだろう。

(民の評判にいう、剛胆さ、か……?)

 オースティンは内心苦笑いしながらも、ライラがそうまでして招く客に興味を覚えた。

「きっと、このあたりに隠れて眠っておいでです。旦那さまはお昼寝が大好きで」

 ライラがそう話している。確かに昼寝はきらいではない。「サルヴィア、よろしかったら、旦那さまをお探しして、起こしてさしあげて? わたくしはあちらを探してみます」

「ええ、いいですよ」

 ——サルヴィア。

 花の名前。野に咲く、清楚で慎ましやかな花の名前。農村出身らしい名前。

(プリエスカの名前だな)

 オースティンは、ライラがその女を連れてきた理由がおおよそわかった。

 寝たふりを続けつつ、薄目で見る。

(あれか……)

 少年はさりげなく、茂みのむこうのプリエスカ人を観察した。

 女は、水路近くの植木の陰などを調べはじめている。肩の上で大雑把に切られた黒髪が、かがむたびに揺れていた。黒目がちな眼には、あふれんばかりの好奇心の輝き。歳のころは十六、七か。声が落ちつきはらっていたので、二十歳は過ぎているかと思ったのだが、想像よりも若かった。

 それにしても、とオースティンは思う。

 何という偶然だろうか。

 少女の服装には見覚えがあった。紺の詰襟に同じ色のスカート、銀の冠にクーヴェル・ラーガ(青い石)——つまり、先日ツォエル・イーリが擬態していた青年「エルン・カウニッツ」と同じ服装。ということは、少女もまたプリエスカ王立理学院の学生だということだ。おまけに、冠の石の色が所属学級を意味しているとすれば、同じ「Aクラス」生。

 旅行でラージャスタンに来て森に迷いこんだのか? いや、プリエスカ人が敵国ラージャスタンに好き好んででかけるとは考えにくい。そのうえ、距離の点からいっても商売目的以外の一般人が気軽に旅できるとも思われないし、そもそも旅行に制服を着てくるだろうか。考えれば考えるほど、なぜ彼女がこんな土地をうろうろしているのか、理解できなかった。

(ふむ)

 じかに訊くことにしよう。オースティンは決めた。

 おりしも、サルヴィアという少女はこちらに向かってくる。とはいえ、少年の居所には気づいていないようなので、ひとつ驚かしてやることにした。相変わらずそら寝を決めこみながら、息をひそめる。彼女が、視線をあさっての方向にやったまま、赤い花の一画に踏みこんだそのとき、オースティンは内心ほくそ笑み、予告なしに少女の手首をつかんだ。

「!」

 少女は飛びあがりそうになったが、声はあげなかった。やはり歳のわりに落ちつきがある。たぶん彼女は今、怪訝な顔でオースティンをみつめているのだろう。少年は、顔は狸寝入りで、手だけはがっちりと少女の手首を握っている。

「——誰だ?」

 オースティンは問い、ゆっくりと目を開けた。

 黒い瞳が、少年を見下ろしている。みひらかれた眼には、こちらの思いどおり——驚きの色。

 だが、見惚れるとか魅入られるとかいった雰囲気ではなく、それがオースティンには意外だった。普通、初対面でオースティンの容貌にみとれない者はいない。けれど少女は、それ以上でもそれ以下でもない、ただの好奇心をもってオースティンを値踏みしているらしかった。理知的に光る眼は、多くの人間が少年に対して抱くような下心とは無縁のもの。

 次に、少女は遠慮がちに吹きだした。何がそんなに笑いを誘発するのか知らないが、必死の体で堪えている。

「……」

 オースティンはさすがにむっとして、眉をひそめた。《英雄の現身》たる自分を前にして感嘆しないばかりか、笑うとは何ごとだ。

 少年はおもむろに身を起こす。《英雄の現身》と呼ばれるのは伊達ではないと、わからせてやろう。

「……えっ」

 少女はあっさりと声をもらした。

 何をしたわけでもない。ただ背中についた芝や花を払い、背筋を伸ばして気分を引きしめただけである。それだけでオースティンはトゥルカーナ公子になり、ラージャスタン皇女婿になる。長年、アレンや乳母ノーラとともに頭の切り替えを練習してきた成果といえよう。

 が、サルヴィアなるプリエスカ人少女は、感心したように少年をみつめながらも、依然として見物しているふうである。美しいものから目が離せないのではなく、まるきり珍獣扱いだった。何がおもしろいのか知らないが、失礼な娘である。

「おい、おまえは誰だ?」

 オースティンは尋ねる。「ラージャスタン人ではないな」

 少女は応えない。少年の何かを分析するので頭がいっぱいのようだ。

「おい?」

 返事の代わりに、

「……《春の雨みたいな声》……?」

 と、少女はつぶやく。ラージャ語は不慣れなようで、彼女の母国語たるプリエスカ語だった。どうやら、あの「黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳、その声は春雨のごとく。英雄クレイガーンの現身」という詩と、実物の《英雄の現身》オースティン・カッファを比較対照していたらしい。本人の目の前でやるべきことか? 少年は呆れたが、少女の態度に陰険さがなかったので、さほど気には触らなかった。

「ブリエスカ語だな。《おまえ、プリエスカから来たのか?》」

 少年は試みに現代プリエスカ語で話しかけてみる。これなら、反応せざるをえまい。

「《! あなた、現代プリエスカ語がわかるの?》」

 ようやく少女が、オースティン自身を直視した。この重ね重ねの無礼から察するに、ライラはここが皇宮とは伝えていないのか。《マーリ》が皇女でオースティンが皇女婿であることも。いや、そのわりにはくだんの詩と少年の関係を知っていた。

「《多少は。ラシュトーの言語であれば、だいたいは話せるぞ》」

「《へえ……。大したものね、『クレイガーンの現身』も》——」

 少女が、しまった、という顔になる。つまり少女は、本当は知っているくせに知らないふりを通したいらしい。

「……マーリ、こっちでご主人をみつけましたよ」

 何ごともなかったかのように流す。学生とは思えない度胸だ。が、しょせんは素人である。こういう素人の名のる名前だ、ひょっとすると、サルヴィアというのも偽名かもしれない。

(サルヴィアか)

 それは、野の花の名前。(どこかで聞いたな)

「オースティン、といいましたか?」

 彼女はにっこりと微笑んだ。「私はサルヴィア。森で偶然マーリと出会って、招かれました。あなたのお相手をするようにと」

「《かなり勉強しているな》」

 少年は現代プリエスカ語で切り返す。「《だが、まだまだ。ルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)にしては、舌の動きが硬い》」

 暗に、なぜ外国人がここにいるのか、と訊いている。サルヴィアの唇がわずかにひきつった。

(仕返しだ)

 さんざん人の顔を笑いものにしておいて、自分のやりたいようにやれると思ったら大まちがいである。若い女に対しても、世の中はそんなに甘くない。まして、女に不自由していないオースティンとしては、無難にやりすごそうという少女の願いを、口裏を合わせてまで汲んでやる義理はなかった。

 何もかもはっきりさせてやろう。そう意地悪く考えるのは、ほとんど八つ当たりかもしれなかったが、気にしない。

「……《事故ですから》」

 渋面を隠さない少女が、嘆息がちに言う。

《何が》と聞き返すと、

「《私がここにいることです、もちろん》」

「《理学院召喚学部Aクラスの学生とは、グレナディンからファテープルにひとっ飛びするような事故に巻きこまれるものなのか?》」

 少年はいやみったらしく質問する。

「《特殊な例です。通常はそんなことはありません》。——ところで、お尋ねしますが」

 サルヴィアは淡々と答えてから、その場に膝をつくと、ラージャ語使用に切り替えた。こころなしか、先ほどよりも発音が安定したようである。耳のいい娘だ。

 そして、少年に問いかけた。

「私は、殿下に対して最上の礼を尽くす必要がありますか」

「——」

 オースティンは目をみはる。それは、こちらの意思を確認すべきことではない。けれど、少年は迷わず、

「ないな」

 と、返した。「そういう人間はまわりに多い。そうじゃない人間も少しは必要だ。そうだろう、マーリ?」

「サルヴィアをお気に召されたようで何よりですわ」

 茂みのむこうから顔をのぞかせて、ライラは口角をあげる。予行練習をさせるつもりで招いておいて、「何より」もくそもあるか。オースティンはサルヴィアの視線にも頓着せず、思いきり顔を歪めてみせ、ライラから目を逸らした。仮に、ラージャスタン皇女夫妻の仲が芳しくないという噂がプリエスカにひろまったとしても、オースティンの知ったことではない。

 サルヴィアは冷静に夫婦のやりとりを眺めていたが、とりたてて口を挿むことはせず、至極自然に話題を変えた。彼女は現在学院でラージャ語を習得中だという。かの戦争で召喚士として活躍していた講師に指導を受けているけれど、オースティンが「まだまだ」というからにはそのとおりなのだろう。ぜひ本場の発音を身につけたいから、ラージャ語で会話して聞かせてほしい、と頼んできた。

 オースティンとライラは快諾した。相手方にも利があるのなら、こちらも対プリエスカ人交流を気兼ねなく練習できる。三人はまず、客舎に女官が通りがかった場合に外国人の姿を見咎められないよう、《赤の庭》の死角を探す。そこに丸く並んで座りこむと、ぽつりぽつりと話しだした。

 会話は弾んだとは言いがたいものだった。何しろ、パーティー用の会話とは根本的にちがうし、パーティー用でこと足りる相手でもない。

 第一に、相手はプリエスカ人の平民である。話題にしていいことと、してはならないことがあった。それは相手も同じだろう。おそらく《英雄の現身》への関心は尽きないのだろうが、特に互いの身分差が大きい場合には、礼儀というものを無視できない。サルヴィアは、いつごろ結婚したのかとか皇帝はどんな人なのかとか、そういった差し障りのない質問を終えると、聞く側に徹するようになった。

 第二に、彼女の性格だ。一般的な女であれば、オースティンの容姿を前にすると舞いあがり、ひとりではしゃいでくれ、とるにたらない内容ばかりしゃべりつづける。サルヴィアは名門生で知識人のはしくれなだけあり、興味の所在がそうした女たちとは異なるようだった。オースティンが関わったことのない類いの娘である。

 互いに腹を割って話しあえる立場だったならば、愉快な議論ができるのかもしれない。けれど、オースティンはラージャスタン皇女婿であり、サルヴィアは外国人の学生である。少年の立場の強さからいって、彼女を巻きこむこともできないではなかったが、オースティンはそうしたくなかった。

 彼女は《マーリ》同様、それまでに出会った女たちとは一線を画している。つまり、自分にとって尊重すべき人物だということだ。

(……尊重か)

 サルヴィアに聞かせるべく、ライラと無難な言葉を交わしあうオースティンの心境に、ふと影が落ちた。

 どうしたらいいのか、わからない。

 ライラは理想的な皇女を模して笑う。しかし、笑うのはライラの意思ではない。ライラはラージャスタンの下僕であり、彼女にとってオースティンは主の一人である。だが、首尾一貫してくれたのならまだしも、彼女は彼女自身もちらつかせ、少年を振りまわす。

 ライラに訊きたいことがある。

 ——ライラはどうしたいのか。

 たとえ、再び拒まれても。

(優しくしたい)

 と、少年は思う。(優しくしてほしい)

 今は完全に《マーリ》として振るまっているライラと、オースティンは会話を続けられなかった。聞く側にまわったサルヴィアは、退屈をもてあましている様子だったけれど、少女の暗黙の要望に応える余裕は少年にはない。

「そういえば、マーリは……、どこで東言を習った?」

 一見、無難そのものの問いは、オースティンにとっては核心である。

「旦那さまをお迎えするんですもの。トゥルカーナから先生をお呼びしました」

《マーリ》はすみれ色の瞳を細める。「ですが、オースティンさまが口にされていると思うと、不思議と懐かしく感じられたものです。習得は苦ではありませんでした」

「発音もよかった。ラージャ語よりうまいんじゃないか?」

「まあ、それは光栄ですわ……」

 一瞬、《マーリ》の皮が剥がれかかり、ライラは黙りこむ。三人のあいだに沈黙がたれこめる。やはり、ライラはトゥルカーナの話題に弱い。アレンと三人で出会ったときなどは、特に不審な点はなかったけれど、ライラ自身に関するトゥルカーナとのつながりをほのめかされると、彼女は揺らぐ。あの宴の夜もそうだった。

 今こそ訊くべきだ、とオースティンは思った。もちろん、サルヴィアさえいなければ、さっさと切りだしていただろう。が、言いだせなかった。よって、オースティンも黙ってしまう。おのずから、少年が持ちかける話はみな核心に迫ることになってしまい、二人は幾度となく沈黙を味わうことになった。

 そうこうしているうちに、空が暮れかけていた。サルヴィアがふいに顔をあげ、それにつられて見あげたオースティンの眼にも、橙色の空が映った。

「時間がないので帰ります」

 サルヴィアはいきなり告げた。もはや発音は寸分の乱れもなく、オースティンは少女の並外れた能力に舌を巻く。

「帰るってどうやって? ここには事故で来たんだろう」

 オースティンは当たり前の疑問を口にした。

「なんとかなります。マーリ、一緒に火(サライ)の結界をくぐってもらえますか。騒ぎを起こすわけにはいきませんから」

「それはかまわないけれど……」

 オースティンは、浅い眠りから覚めたような心地がしていた。その眠りのなかで、夢をみた。夢の中で、《マーリ》ではない、故意に皇帝の呼び名をまちがえたあの少女が、少年の前にたたずんでいたのだけれど——思うようには話せなかった。でも、少しだけ彼女に触れた気がする。そんな、美しくもあり、いまいましくもある夢。

 しかし、夢はまだ続いているのかもしれない。ライラが、サルヴィアを送りだすことに少し難色を示している。このプリエスカ人が帰れば、小さな夢は途絶えるのだ。ライラが、夢を終わらせたくないと願っているとすれば、ここもまだ夢の中だろう。

 けれど、

「必ずまたお会いします」

 と、サルヴィアが言ったとき、オースティンは夢から醒めた。

 急に笑いがこみあげて、

「また事故を起こすのか」

 と、どうでもいい冗談をいわずにはいられなかった。

(何をやってるんだか)

 少年は自嘲的に口の端をあげる。(彼女を追って、彼女に拒まれて、少しだけ彼女が見えていた気がして——また追って、また拒まれる。その繰り返しじゃないか)

 もう終わりにしよう。

 ——夢をみつづけるか、夢をみるのはやめるか……、そのどちらかだ。

 気がつくと、サルヴィアは踵を返したところだった。

 いいえ、とプリエスカの少女は微笑んだ。

「——今度はきっと、正規の手続きを踏んで」

「!」

 予測だにしていなかった言葉に、オースティンは二の句が継げなかった。

 今の今までライラのことで頭がいっぱいだったのが、皇帝の思いつきの一件で埋め尽くされる。

(すでに理学院召喚学部Aクラスからの留学生四名、選抜ずみでございます。内訳は男子学生三名に女子学生一名。名前をあげますと、ルッツ・ドロテーア、ニカ・メイシュナー、メルシフル・ダナン、それに女子がセージ・ロズウェル)

 サルヴィアは花の名前。それは、野に咲く、清楚な花。

 またの名を、セージという。

 ——留学生!

 彼女は手を振りながら離れていく。が、オースティンは手を振り返せない。

 利発な、尊重すべきだと感じた少女。彼女を、オースティンは巻きこむのである。皇帝やツォエル・イーリの言を借りるならば、彼女ら留学生四名と「友人」になり、ラージャスタンとプリエスカとの「架け橋」として据える。しかしその実情は、両国が互いにはたらきかけている策謀の中心に、彼女らを引き立てることにちがいなかった。

 オースティンはその提案を聞かされたとき、さほど問題とはしなかった。アレンをそばにおけるなら、謀略とわかっていて留学生四名と親しくするぐらい、朝飯前だと思った。けれどそれは、留学生たちを知らなかったから、短慮にもそう思っただけ。

 今は知っている。留学生の一人「セージ・ロズウェル」は、尊重すべき少女だ。

 でも、どうだろう? 仮に彼女が尊重すべき少女だと、もともと知っていたとしても、皇帝の命に背けるのか? 皇帝は舅であり、オースティンにとっては主人である。ラージャスタンにおいては皇帝の命は絶対、もしオースティンが拒否すれば、あのカリエン・ムルーワ同様、不敬罪に問われる。いちおう皇帝は交換条件を提示したけれど、立場的には条件があろうがなかろうが変わりはない。

 だが、皇帝の発案の契機となったのは、他ならぬオースティンのわがままだった。ひょっとすると、オースティンが三つの要求を突きつけなければ、皇帝とて企てを実行に移しはしなかったのかもしれない。そして、三つの要求のきっかけとなったのがアレンであり、最終的にすべてはライラに行きつく。《マーリ》に心惹かれなければ、ライラに出会わなければ——ムリーラン宮は動きださなかったのだ。

 まさかとは思うが、《翡翠の楼閣》に住む古狸と彼に侍る雌狸は、最初からそこまで予測して結婚話を持ちかけたのか? 雌狸については、十六、七年前はほんの子供だっただろうからいいとして、古狸についてはありうる話かもしれない。そこまで具体的ではなかったにせよ、《英雄の血》をマキナ皇家に加えるのみならず、何らかの手段として利用するつもりはあったのでは。

 オースティンとマーリがそれなりに育ってからは、夫婦となる二人の性格を踏まえて、さまざまな謀りごとが自然の流れとなるよう策をめぐらせたのでは? マーリの小娘じみた浅はかさやわがままも、オースティンがマーリを好きにならないことも、マーリが影姫に演技させることも、皇帝の編んだ戯曲に書かれていることなのでは——。

(考えすぎか)

 とも、少年は思う。けれど、それにしては話がつながりやすい。全部が全部、糸をたどっていけばプリエスカとの関連になるのだ。きっと、婚礼が早まったことにも何かあるのだろう。オースティンとマーリが結婚していなければならない、時期的な何かが。マーリ即位後の婚礼では間に合わなかったとみえる。

 ——ゆめゆめ、おかしなことに巻きこまれませんように。

(いいですか、口先ばかりの人間を信用してはいけませんよ。オースティンさまの心がそう命じる人のみ、信じてください。でも、そう簡単に心を動かされてはいけません。常に冷静に冷淡に、けれど決して己を偽りなさいますな)

 皇帝や女官を信用したわけではない。心が命じたわけでも。しかし、結局は同じことだ。彼らのいうがままになったのだから。

 アレンはおそらく、いさめたいのだ。目を覚ませと。異国での孤独ゆえに、ますますつらい道を選んではならないと。

(だけど、アレン……すまない)

 オースティンは胸のうちで乳兄弟に謝罪する。(僕は、ライラに出会わなければよかったとも、おまえを呼ばなければよかったとも、思わない——)

 そのとき、サルヴィアを見送りにいったライラが、庭に戻ってきた。

「オースティンさま、サルヴィアは同じ制服を着た少年に引きとられました」

 と、ライラは報告する。「少年は、青い髪と瞳の妖精を連れていたようです。おそらくは、例の……」

「わかった」

 オースティンはうなずいた。「ところでマーリ、話がある」

「はい、何でしょう。……あら」

 ライラは空を見あげた。先ほどまで夕焼け色だったのが、灰色に変わっている。雨季になじみの灰色の雲は、すぐに大粒の雨を降らせはじめた。

「旦那さま、濡れるといけませんわ。お部屋に戻りましょう。お話はそれからうかがいます」

「いや」

 オースティンは頭を振った。「ムリーラン宮に戻れば、ツォエルやファンルーが来るだろう。二人で話したい」

「ご心配は無用ですわ、オースティンさま。夫婦の会話に口を挿むような不粋を、女官が犯すでしょうか」

「ライラ!」

 影姫の笑顔がかたまった。オースティンはその手をとった。「——こっちだ」

 少年は雨に打たれつつ、駆けだした。ライラは、声も出ないほど驚いたのだろうか、引きずられるようにして彼についてくる。ラージャスタンの雨は激しく、土壌は水はけが悪く、降りだして何分と経たないうちに庭はちょっとした池と化した。オースティンは泥がはねるのも頓着せずに、《赤の庭》を出てサイアト宮へ走り、サイアト宮前の庭園から広大な人工林に入った。

 人工林を突っ切った先に、四阿(あずまや)がある。あの宴の夜、ライラとともに鹿鍋を食べた場所。オースティンはそこに飛びこむと、ようやくひと息ついた。二人とも、服といわず髪といわずひどいありさまで、オースティンはさすがにここまで引きずってきたことを悪く思った。

 申しわけ程度に、ライラの髪の水滴を払ってやる。すると、彼女は身をこわばらせて飛び退いた。

「——やめてください!」

 彼女は叫ぶ。ライラなのか《マーリ》なのかは、わからない。「あなたのするべきことではありません。私はあなたの女官です。あなたが私の世話をするのは、筋ちがいです」

「……」

 彼女は「私」と言った。「わたくし」ではなく。

「ライラ」

 もう一度、少年は呼んだ。彼女の細い肩が、びくりと震えた。

「場所をわきまえたほうが、よろしいのでは……」

 弱々しく、娘は答える。

「誰もいない」

「それでも、ここは皇帝陛下の庭です。私はお役目を守らなければ」

 少女はまたしても「私」といった。少女はまちがいなく、知っていて嘘をついている。それとも、守るべき掟を破られて、動転しているのか。

「では、ひとつだけ、答えてほしい。ライラ」

「……、」

 ライラは紫色の瞳をまっすぐに向けてきた。

 少し、まなじりが濡れている。さんざん雨を浴びたあとなので、そのことにおかしな期待を寄せることはできない。けれど、ここにいるのはライラだ。

 ライラの着物も濡れて、白い布越しに彼女の肌が透けている。オースティンは着物のはりついた肩をつかむと、このうえ逃げられないように、正面からライラを見た。そうして、少年はその問いを発した。キサーラにトゥルカーナの孤児の話を聞いて以来、少年のなかにくすぶっていた問いだった。

「おまえは——僕に復讐しているのか?」

 ためらわずに、尋ねる。ひとたび躊躇すれば、もう口にはできないだろうから。

 本当にライラがトゥルカーナ人孤児で、自国の民を養いきれずにラージャスタンに押しつける大公を彼女が恨んでおり、ひいては大公の血をひくオースティンをも恨んでいるとしたら——それゆえ婚礼を機に復讐を望むとしたら、今後、ライラが自分の意思で少年に笑顔をみせることはない。

 オースティンはずっと、それが恐ろしかった。

「……何をおっしゃっているのか、わかりかねます」

 と、ライラは返事をする。

「わからない? では、質問を変えよう」

 オースティンは口角をあげた。もう怖がる必要はない。「おまえはトゥルカーナの孤児か?」

「……キサーラ、あのこが……」

 ライラは顔を逸らした。

「そうだ。失敗だったんじゃないか? あの怖いもの知らずの娘を、宮殿に招いたのは」

 少女は目を伏せる。身をよじり、少年から離れようとするので、オースティンは肩をつかむ手に力をこめた。痛い目に遭わせたいわけではないが、逃がすわけにはいかない。しかしライラは、少し試みて敵わないとわかると、観念したように大人しくなった。

「——ちがうのです、きっと」

 少女は首を横に振りつつ、つぶやく。

「何がだ?」

「私はトゥルカーナを憎みました」

 ライラは断言した。「ラージャスタンに連れてこられ、慈善園に入れられるまで、ろくなことがありませんでしたから。でも、単純に生まれた国を憎んだのは、子供だった私の無邪気さです。今はもう……、そんな気持ちはありません」

「では、なぜ?」

 オースティンは半ばどなる。「それならどうして——」

 ——どうして、僕の心に踏みこんだ。……

 言葉にはできない。むろん、彼女は重々承知だろうが、これを声にすれば、彼女の狙いどおりオースティンがライラに心奪われたことを教えてしまう。教えれば、オースティンの負けである。とうの昔に負けているとしても、逃れようのない確証まで与えてなるものか。

「……わからないのです、私には」

「わからない? 自分のことだろう?」

「わかりません」

 ごまかしているようには見えなかった。彼女は、この場でひとつひとつの言葉を選びながら、オースティンに対峙していた。

「私は、もう長いこと、自分の所在がわからないのです。自分の感情のありかや、願うこと——」

 その紫色の瞳は昏い。「——でも——ただひとつ、わかることがあるとすれば——」

 

 

(オースティンさまは美しい)

 

 

 それだけです、と彼女は言った。

 

 

「お顔については、お血筋に固有のものでしょう。ですから……、そうではなく、——そんなふうに怒ることが、私にはもうできない、と思えるのです。子供じみている、といわれればそうでしょうが、何もかもを受け流すことができるのを大人だというのは、卑怯な人間が己を正当化する術であると、私は考えます」

 少女は困惑がちに微笑んだ。

「本当のものを探すために憤慨するあなたさまが、私にはまぶしい」

 皇女の笑みではない、彼女の笑みだった。「これだけは、わかっているのです。けれど、それ以上は——オースティンさま?」

「——」

 オースティンは思わず、ライラの華奢なからだをかき抱いた。

 これで、ライラにはオースティンの顔が見えない。どんなに情けない顔をしていても、ライラがそれを知ることはないのだ。

 ——雨が降っていてよかった。

 少年はひとりごちた。彼女の背中に涙がしたたったところで、どうせ雨で濡れている。堪えきれずに嗚咽がもれても、降り注ぐ雨がかき消してくれる。人工林に降る雨は、葉に滴る雨粒がにぎやかで、少年の名誉を守ってくれる。

 この醜態については、夢ならよかった。

 けれど、他のことについては、すべてうつつでなければ空しすぎる。雨、彼女、彼女の言葉、——背中に触れている彼女の、指先の熱。ためらいがちな指が、確かに少年の背中をかすめている。

 しかし、夢のような時間は、短かった。

 急に、ライラの体温が遠ざかり、オースティンは大急ぎで顔を拭わなくてはならなかった。ライラの愕然とした表情に、まさしく頭から冷水を浴びせかけられた心地がして、少年は少女の視線のむこうを振り返る。

 四阿の外に、ふたつの人影がある。

 オースティンもまた、息を呑む。そこには、雨を遮るために頭から衣をかぶった二人の女官——《五星》筆頭ツォエル・イーリと、次席のファンルー・イーリがいた。

 ファンルーは明らかに青ざめており、震えてもいる。ツォエルはその美貌に笑みを浮かべているものの、やはり見惚れるよりも恐ろしいと感じた。

「まあ、そんなに濡れておしまいになって……」

 と、ツォエルは言った。「姫さま、ムストフ・ビラーディ。今、メアニーに湯を用意させております。お部屋にお戻りくださいませ」

「ツォエル、これは——」

 オースティンは弁明を試みた。側付きの女官に手を出すくらい、ままあることであり、むしろ後継者候補が増えてありがたいことではないか、と通常ならいうところだが、ツォエルには通じない気がした。彼女の意に染まぬことをやって怒らせでもすれば、何が起こるかわかったものではない。そうオースティンの直感が告げている。

 とりわけ、ライラの身が危ない。オースティンの身を好きにすることはできないだろうが、ライラなら口実があればどうとでもなる。皇女マーリの身代わりとして育成した女官なのだから、取り替えはきかないかもしれないが、しょせん孤児の娘。後釜は必要だが、さして問題にはならない。

「これは——別にそういうわけじゃない。誤解するな」

「まあ、何をおっしゃいます、ムストフ・ビラーディ」

 ほほ、とツォエルは笑みをもらす。「何も問題はございませぬ。そうではありませんか? 皇女殿下と婿殿のお仲がよろしいのは、喜ばしいことです」

 どうやら、ムリーラン宮の外で影姫の件を口にするほど、愚かではないようだった。オースティンとライラは衣を頭からかぶせられ、二人に付き添われて人工林を抜けていく。サイアト宮を通って長い廊下を進んでいき、ムリーラン宮に到着した。ライラはファンルーに伴われて去り、オースティンはツォエルに伴われて部屋に帰る。

 扉を閉めたとたんに、ツォエルはまた微笑んだ。

「むしろ好都合でございます、ムストフ・ビラーディ」

(……雌狸め)

 少年の背に寒気がはしる。

「どういうことだ」

「おわかりになりませんか? では、ご説明いたします。おそらく、近々、姫君のご懐妊が明らかになるでしょう」

 オースティンはうなずいた。早々と義務を果たせてけっこうなことだ。成功すれば、肩の荷が降りる。

「兆候はあるのか?」

 少年は聞き返す。

「ええ、ございます。そして、もし同じころに影姫がムストフ・ビラーディのお子を宿したならば、施設慰問の際には民の目に触れることになりましょう? これほど好都合なことはございますまい」

「なるほどな。そういう意味か」

 すなわち、宣伝である。それがオースティンやライラの役目なのだから、好都合というほかないだろう。

「が、念のため、言っておく」

 と、オースティンは告げる。「万が一、ライラが追放されるようなことがあれば、僕が宮殿にとどまる理由はない。……僕がこうまで思うようになったのは、おまえたちの皇女の過ちだ」

「事情はファンルーより聞いております。さぞご不快に思われたことでしょう」

 張りついた笑顔は揺らがない。「ですが、オースティンさまが危惧されるようなことにはなりませぬ。わたくしが保証いたします。ご承知のとおり、ライラは重要な娘です。アグラ宮殿になくてはならない女官といえるでしょう」

(誰にとって『なくてはならない』んだか)

 少年は苦笑しつつ、ぞっとした。先刻から、寒気が止まらない。雨に濡れたせいかもしれないが、何よりツォエル・イーリである。おそらく、狸は皇帝ではなく、この孤児出身の女官なのだ。狸というよりも、むしろ狐か蛇というほうがふさわしいけれど。

 蛇が呑みこもうとしている卵は、ラージャスタンという国なのか、あるいは大陸全土なのか——。だがオースティンには、今後、大陸を覆うのだろう暗雲よりも、プリエスカの学生たちを襲うだろう悲劇よりも、たった今ツォエルがかたわらにいることのほうが恐ろしい。

 どうして、ライラ以外の女官の近侍など、許してしまったのか。けれど、すでに遅かった。蛇はオースティンをも毒牙にかけようとしている。気づかぬうちに甘い毒を吸いつづけてしまうと、いつしかからだと頭は動きをやめるのだろう。おそらくは、ラージャスタン皇帝ザーケンニ七世のごとく。……

 雨は、翌日にいったんやんだ。

 オースティンは今日も、湿りけのある芝生で眠っている。

 

 

 少年は待っていた。運命がこの地にたどりつくまで、彼は目覚めない。

 

 

   *  *  *

 

 

「アレン!」

 母親に呼ばれて、廊下を行く少年は立ち止まる。

「何です?」

「おまえ、いったいどうするつもりなの? 今日もラージャスタンのご使者が見えてますよ」

 ああ、そうですね、と少年はおざなりに答えた。母親はこめかみを押さえて嘆息する。彼女は長年の女官生活が板についており、息子が一国の使者を煩わせているという事実に、このごろ疲れている様子だった。

「自分の立場をわきまえなさい、アレン! おまえは、外国のご使者に迷惑をかけて許される身分ではありませんよ」

「それはわかってますよ、母さん」

 アレンは肩をすくめる。じゃあなぜ、と、母ノーラはこの三ヶ月間問いつづけたのと同じ問いを、今日も反復した。アレンとて、同じ質問には同じ回答で返すしかない。なぜならそもそも答えは一貫しており、問いつめられたり脅されたりしたからといって、容易に変えられるものではないからだ。

「ぼくには、オースティン公子殿下の乳兄弟、小姓として、信念があるんです」

「聞き飽きました!」

「ぼくも言い飽きました。ぼくは、オースティンさまを送りだした時点で、オースティンさまを一人前と認めているんです。一人前の人間が、乳兄弟がいなければ仕事を放棄するだなんて、普通しませんよ。……ああ、情けない」

 アレンは大いにため息をつく。身を裂かれる思いで別れてきたというのに、こちらの気も知らず、婿入り先の国にさんざん迷惑をかけて。どうやら、育てかたをまちがえたようである。甘やかしたつもりはなかったのだが、注意を怠っているうちに、まわりの人間に依存するようになってしまったのか。それとも、ラージャスタンでそれだけのことに遭遇したのか。

 心配ではあるが、ひとりで乗り越えてこその試練である。アレンは、どんなに大公に頼まれても、使者に泣きつかれても、断固としてラージャスタン入りを拒否した。トゥルカーナでは、大公は名目上は支配者ではあるが、伝統的にその発言には強制力がない。ラージャスタンの使者も、本国内ならいざしらず、トゥルカーナでは何の権限もない。トゥルカーナは英雄同盟の盟主であって——これもやはり名目上のことだが——、ラージャスタンの属国ではないのである。よって、アレンは自分の心の命じるままに要請を拒めるのだった。

「主人の悪口をいう小姓がどこにいるの! アレン!」

 ノーラは顔を真っ赤にして叱りつける。

「悪口と批判はちがいます」

 アレンは淡々と応酬した。

「なんて屁理屈を! もう三ヶ月もご使者をお待たせして、私は大公閣下に合わせる顔がありません」

「ええ、ぼくもです。ですから、——そろそろ行きますよ」

 アレンはノーラをよけて、歩きはじめる。「あのばか公子を一発殴ってきます」

 では、とアレンは告げて、さっさと使者の待つ部屋へと向かった。扉を開けて部屋に入ると、とっさに追いかけてきたノーラの目の前で、すばやく扉を閉ざす。

(母さん、お別れです)

 しめっぽい別れは、もういちど会ったときのためにしないでおく。なにせ、オースティンと涙ながらに別れてきたことが、こんなにもまぬけな結果になったのだから。涙は気軽に流すべきものではない。

「——お待たせしました」

 ラージャスタンの装いをした使者が、長椅子から立ちあがる。どうぞそのままで、と少年がいうのにもかまわず、今日こそは色好い回答をと、男の目が哀願している。

「荷物はまとめました」

 使者の目が輝いた。三ヶ月も外国で無為に過ごせば、うれしくもなるだろう。

「すぐにでも、出発しましょう」

 

 

 こうして、アレンは故郷を発った。

 そのときの少年は、オースティンをいさめることだけが頭にあり、かの地で自分の身に起こることや、ましてそれが大陸を揺らがすことなど、知る由もなかった。

 少年にとって確かなのは、懐かしい主が自分を待っているということ。もう一度、怠け癖のある公子を叱ってやれること。それに——まぶたの裏に焼きついた、あの日の鮮やかな情景。涼やかな鈴の音と、軽やかな足どりと、華奢な背中。

(あの人に、また会える)

 そんな喜びを抱くことの罪深さなど、アレンは考えなかった。いま少女とは国境を隔てた遠さにあるがゆえに、少年の心にはひたむきな憧れしかなく、邪な欲望とはかけ離れていた。懐かしい主と彼女とに誠心誠意仕えることが、少年には至上の幸福であると思われた。

 馬車が揺れる。風景が飛び去っていく。

 少年の思いも、駆けた。

 

To be continued.

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