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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第5話「火の宮」(1)

 満開のばらの庭に、彼の主がたたずんでいる。

 赤、退紅、白、黄——とりどりに咲き乱れるばらの中でも、主の鮮やかさは引けをとらない。人がもっとも美しくなるころ、十八の歳のままで時を止めた彼女は、いってしまえば生ける屍である。美しさや鮮やかさというのは、一瞬で消え去るからこそ人の心を打つものにちがいないが、彼女の子にクーヴェル・ラーガと名づけられた妖精としては、永遠という美もあるように思われた。

 あるいは、いずれ失われることを知っているから、彼女という存在が美しく映るのかもしれない、とも彼は思う。主は人にしては悠久の時を生きているが、この先も変わらず存在しつづけるとはなぜか思えなかった。おそらく、彼女はいつかこの庭をあとにするだろう。他のもの同様、曖昧で不安定な存在となり、世界に溶けこんでいく。ラーガも彼女を見失ってしまう。

「おや、帰っていたの」

 主たる時姫(ときのひめ)が、妖精に気づく。「そんなところで突っ立って、何をやっているんだか」

 大輪のばらの陰でおかしげに笑う、主の笑顔のまぶしさ。

「申しわけありません、主よ」

 ラーガはいつもどおりの無表情で頭を下げる。「メルシフルは無事に旅立ちました。二日ほどでラージャスタンに着くようです」

「そう」

 時姫は長い髪をかきあげ、踵を返す。

「それで結局、召喚士は理学院の教師だったのかい。カリーナ・ボルジアとかいう」

 館のほうへ戻りながら、主は振り返らずに尋ねた。

「そうです。結界は火(サライ)の二級でした」

 ラーガはうなずいた。「俺がいなければ、メルシフルが対抗できる精霊ではありません」

「学院も変わったものだね」

 時姫はつぶやく。「私がいたころの理学院は、不当に学生を縛りつけることなどしなかったよ。編入したときも、私の説を知っていて受け入れた。……もっとも、五百年以上も前のことを懐かしむなんて、こんなばかげたこともないがね」

 主は華奢な肩をすくめた。主はまだ人間だったころ、学院の裏切りに遭っている。人間としての晩年の著書である『精霊王に関する考察』が出版禁止処分を受けたことだ。元素精霊教会出版はほとんどの著作を引き受けてきたが、『精霊王に関する考察』だけは許さなかったのである。

 それまでの著作も、火(サライ)など個々の元素に着目しつつ、暗に絶対的な王の存在をほのめかす内容だった。よって時姫は、最終的に精霊王という名を明記したとしても、教会はひとつの説として容認すると信じていたのだ。健在だったころのロータシアが、宗教的に寛容な帝国だったこともある。

 ところが、出版申請に対する教会側の返答は、否、だった。教会は火(サライ)信仰をはじめとする単元素信仰は黙認しても、精霊王なる不確かな存在について述べた書物を、教会の名において発行することはできないとした。また、当時すでに総合精霊学の大家として名を馳せていた時姫——ベアトリチェ・リーマンの影響力は計り知れず、事実無根の妄想でもどれだけの民衆が惑うかわからない。人心を安らかに保つためにも、発表を許可することはできない、と教会は却下した。

 時姫の失望は大きかった。

 だから、彼女はその名を呼んだ。

 ——精霊王の名を。

 そうして、時姫の世界はまたたきの間に変貌し、元素精霊長たる空(スーニャ)の世界も回転しはじめたのだ。

「あのときより、もっとおかしなことになってるんだね、理学院は」

 と、時姫は言う。「国家と癒着し、今では学生の自由をも阻害するとは。教育機関の名折れだな。リシュリューと会ったころには、学生やら召喚士やらを堂々と戦争に動員していたのだから、もはや政治権力そのものといっていいかもしれん」

 つぶやいて、主は館に入っていった。ラーガはあとを追い、誰も来ないとわかっていながらも、しっかりと入口を閉ざす。主は人間だったころの習慣をいまだに捨てきれないのである。この館はトゥルカーナの森の奥にあるが、張りめぐらされた結界のため、人間にみつかることはない。

 時姫はお気に入りのサンルームに行き、長椅子に腰かけた。こちらに背を向けたまま、てのひらだけを振っている。読み途中の本を持ってこい、という合図だ。ラーガは書斎から栞の挿んである一冊をとり、時姫に渡した。彼女は礼をいうと、たちまち本に没頭しはじめる。この集中力が、かつて彼女が研究者として台頭した所以のひとつである。

 が、今日の時姫は、しばらくすると本を放り投げた。

「……ラージャスタンね」

 と、ぽつりという。「あの子供らが、じきに出会うのか——」

「恐ろしいですか、主よ」

 ラーガは問いかけた。

 時姫は一笑し、

「まさか。私はこれでも六百年生きてる。恐ろしいことなど、もうほとんどないよ」

 と、灰青色の瞳を細めた。「あの子供らが、もし揃って私のもとに来るようなことがあれば、こう言ってやる」

 

 

(行け、子供たち——)

 

 

 ——行って、おまえの世界をぶち壊せ。

 

 

  *  *  *

 

 

「——はあ? なに言ってんだ」

 赤い髪と灰色の瞳をした少年が、不快げに口を歪めた。「カリーナ助教授がダナン君を閉じこめた、だって? おいおい猫野郎、夢みるんならベッドに行きな」

「君こそ、そんなに学院に夢をみたいのかな」

 対する黒髪の少年は、金色の瞳を細め、冷淡に言い放つ。「それなら、今からでも遅くはないよ。とっとと先生がたの懐に戻ったら? ラージャスタンは君が思うほどなまやさしい国じゃない」

「へッ」

 赤い髪の少年は吐き捨てる。「猫野郎に命令されるいわれはねえよ」

「俺も、『バ』カに命令されて従うほど堕ちてないさ」

 黒髪の少年は静かに返した。赤髪の少年は、彼の冷静さが癇に障ったらしく、次の瞬間、なんだと? と、つかみかかる。さらに、それにしても毎回毎回おなじ言いがかりをつけるとは、「バ」カなだけあって語彙が足りないな、と彼が続けたので、赤髪の少年はいよいよ息巻いた。

 そこに、銀髪の少年が割って入る。三人めの少年は、黒髪の少年をかばって立ちはだかり、

「あーもう! いいかげんにしろよ。ルッツもメイシュナーも」

 と、いがみあう二人の少年を制止した。「これから当分、このメンバーでやってくんだぞ? むりに仲よくしろとはいわないけど、努力ぐらいしてくれよな」

「放っておけば? シフル」

 黒髪の少女はひとり、離れたところで単語帳をめくっている。

「セージ……」

「いっそ、心ゆくまでやらせたらいいんじゃないの。仮にどちらかが倒れたとしても、私たちの留学生活に支障はない」

 いや、待てよ、と彼女は付け足す。「どちらか倒れてくれれば、二度とむだないさかいは起こらない。私たちにしてみればむしろ好都合」

「——セェェジ!」

 シフルは大げさに頭を振った。「場所をわきまえてくれよ! ここは理学院の校舎じゃない、——汽車の中なんだぞ? こんな狭いところで土(ヴォーマ)や風(シータ)なんか呼ばれたら、もうどう止めたって悲惨なことになるじゃんか!」

「そりゃなるね」

 セージはあっさりと答えた。

 シフルはこのうえ言い募ろうとして、あきらめた。彼女は少々の破壊など気にとめない。腰を据えてあたるべきことが他にあるのだろう。けれど、シフルにはどうしても、今ここで騒ぎを起こした場合に予測されうるその後の沙汰が気がかりでならなかった。何しろ、ラージャスタン留学の中止が、そうした予測の筆頭にくるのだ。シフルは、にらみあう留学仲間二人をみつめながら、苦笑いするしかなかった。

 シフルたちは、ラージャスタン行きの汽車に揺られている。

 グレナディン・ファテープルの両首都を結ぶクットブラ鉄道は、ものの二日間で旅行者を終着駅へと運んでくれる。シフルたちがふだん利用する列車だと、途中でビンガムやバルティクといった都市に停車し、国境を越える前に引き返すのだが、この特急列車は終点まで止まらない。シフルたちのラージャスタン入りを拒むものは、もはや何もなかった。

 汽車の出発直後にメイシュナーたち二人が恒例のいがみあいに突入したきっかけは、シフルが寮の居室に閉じこめられた一件である。シフルは二人に、出発に遅れそうになった理由を問われた。正直に話す気にもなれず、少年はわずかに学院側の意図を示唆するにとどめた。

「オレをラージャスタンに行かせまいとするやつが、いるみたいなんだ」

 肩をすくめる仕種に、大いに含みをこめて。

 留学メンバー選抜試験の合否発表のときは、学院が空(スーニャ)という力の流出を阻むためシフルを不合格にした、というセージの話が信じられなかったものだが、今となっては信じざるをえない。この期におよんでの悪あがき、しかも正攻法とはいえない手段。学院と教会の姑息ぶりは目に余る。

 シフルの出発を阻止するために学院側のとった措置は、寮の部屋に結界を張ってシフルを閉じこめることだった。結界を破り、駅まで連れていってくれたラーガいわく、火(サライ)の二級精霊だという。ラーガがいなければ、シフルにはどうすることもできなかった。

 召喚士はおそらくカリーナ助教授だろう。シフルが《時空の狭間》を通って汽車に乗りこんだとき、あの場にいた理学院関係者はこぞって助教授の肩をつついていた。きっとカリーナ助教授は、自分が責任をもってメルシフル・ダナンのラージャスタン行きを阻止する、とでも言ったにちがいない。ラーガが結界の精霊に優越できることを見越して、助教授はシフルを解き放ってくれたのだ。もっとも、空(スーニャ)の元素精霊長たるラーガを前にしては、どれだけの召喚士が束になっても敵うまいが。

 シフルは助教授には触れず、結界のことだけを話した。が、ルッツは、見送りにきた教授連中の不審な態度に気づいていたらしく、

「それって、ボルジア助教授なんじゃないの」

 と、したり顔で言う。

 シフルは、たぶんな、と同意しかけたが、それより早く、

「——はあ? 何いってんだ」

 と、彼とは犬猿の仲であるメイシュナーが言い返し、いつもの口論が始まったのだ。

 彼らには前科がある。口論が発展したあげく暴力に訴える、という点は一般的だが、その暴力が殴る蹴るの話ではなく、精霊召喚なのである。ルッツは風(シータ)に愛されていて、思いどおりに使役することができるし、メイシュナーは土(ヴォーマ)召喚を得意とする。風(シータ)はふつう優しく吹くだけの存在かもしれないが、ルッツほどの召喚士ともなれば嵐も呼べるし、土(ヴォーマ)はもともと影響力の大きい精霊である。ただ二人の少年がけんかしている、という規模ではすまない。

「ヤスル教授ならともかく、カリーナ先生がそんなことするか! 先生は、選抜の段階でなんとかダナン君を止めようとしてただろうがよ。そんな犯罪に先生が手を貸すはずがないっての!」

「はずがない、となぜ言える。この『バ』カ」

 ルッツは呆れたようにこめかみに手をあてた。「だから、夢のみすぎだというんだよ」

「おれはBクラスにいたとき、先生にはすごく世話になった。いい先生だって知ってる。先生は、そんな卑怯な真似はせん! ダナン君も、まさか先生がやったとは思ってないよな? な?」

「そりゃ、オレもカリーナ先生には世話になったし、いい先生だと思ってるけど……」

 シフルは、すっかり頭に血の昇ったメイシュナーに、ためらいつつ答える。「でも、たぶんカリーナ先生なんだ。先生たちの態度からしても、ほぼまちがいない」

「ふうん。それなら確かに、『いい先生』かもね」

 ルッツが猫の眼を細める。シフルはうなずいた。確かにカリーナ助教授はシフルを裏切ったけれど、最終的には少年に手を貸し、組織の人間としてではなく、よき教育者として行動してくれたのだ。が、ルッツのほのめかしを察していないメイシュナーは、皮肉と思ったらしい。黙れ、猫野郎、と叫び、黒髪の少年にくってかかった。シフルも止めようとしたが、今度は弾きだされてしまい、今にもコンパートメントは戦場になりかねなかった。

「汽車を壊されたら困るな」

 セージがつぶやく。彼女は相変わらず、涼しい顔で単語帳に目を通していた。「十中八九、連帯責任で強制送還になる」

「淡々とイヤなこと言わないでくれよ!」

 シフルが恐ろしいのもそこである。この留学メンバー、実はたいへん危うい組み合わせなのではなかろうか。

「それじゃ」

 彼女は座席から立ちあがり、手をまっすぐ前に掲げた。「なんとかしよう」

 メイシュナーは激しい剣幕でどなりつづけている。ここが汽車の中であるとか、まわりが迷惑しているとか、そういったことを考えられる状態ではない。ルッツもそれなりに応酬はしていたが、彼のほうはさりげなく周囲に気を配っており、セージの動きに注意を払っている。

 セージと視線を交差させたのち、ルッツはメイシュナーを突きとばした。メイシュナーはよろめき、尻もちをつく。不覚をとったのが悔しいようで、灰色の瞳を攻撃的に輝かせた。それから、この猫野郎、と飛びかかろうとしたとき、セージがごく穏やかな調子で口をひらいた。

「水(アイン)、私に力を貸して——」

 彼女の指先に、淡い青の光が集まってくる。「——メイシュナーを包んでしまえ。頭を冷やすまで、絶対に出すな」

「!」

 彼女のてのひらに集約した青い精霊の光が、にわかに水のゆらめきをもって膨張した。そして、容易には破れない水の膜となってメイシュナーを閉じこめる。メイシュナーは内側から水壁を叩いたが、彼女の使役する精霊を前にしては無力だ。この水壁は音さえ遮断するらしく、どんなにメイシュナーがわめいても詮なかった。

 とうとうメイシュナーはへたりこんだ。水壁の外で様子をうかがっていた少年たちは、ほっと息をつく。いくら一等のコンパートメントとはいえ、こんな狭い場所でことあるごとにけんかを始められては、ラージャスタンに着くまえに消耗してしまう。

 ラージャスタンは彼らの国プリエスカにとって永遠の仮想敵国であり、この道中も決して気軽な旅行ではない。何があってもおかしくないのだから、体力は温存しておかなければならない。その思いは、けんか相手本人も同じらしかった。ルッツは、三人のなかでもひときわ長い息を吐いている。

「前にもこんなことがあったね、ロズウェル」

 ルッツは苦笑した。

「そうだな」

 セージは愉快げに口角をあげる。「以前のドロテーアは、それでも戦う気だった。ずいぶん成長したじゃないか」

「そりゃ、留学メンバーに選ばれたせいで、四六時中この『バ』カといるからね。どちらかが成長するしかないよ」

 シフルとルッツとセージとは、互いに顔を見あわせる。ラージャスタン留学の特別カリキュラムでは、メイシュナーのおかげでよけいな苦労をさせられた。その効果がルッツの精神的成長ならば、そういった意味でもカリキュラムは上々だったといえる。もっとも、メイシュナーが成長していないのなら、根本的な解決にはならないのだけれど。

 誰かがコンパートメントの扉を叩いた。はい、と口をそろえると、車掌らしい老人が顔を出す。

「理学院の学生さんだね? 朝食を預かってますよ」

 と、四人分の弁当を差しだした。

「お、待ってました!」

「そっちの子は……、大丈夫なのかい?」

 車掌は弁当を手渡しつつ、水の膜に覆われた赤髪の学生を見て、おっかなびっくりしている。三人は、

「いま出してあげるところです」

 と、笑ってごまかした。車掌は、それならいいが、というと、皇都ファテープルには明日の真夜中に到着予定だからね、と告げ、留学生たちのコンパートメントをあとにした。

 セージは、頭を冷やすためとはいえ朝食抜きは気の毒すぎる、といい、本当にメイシュナーを出してやった。解放されたメイシュナーは、まだ少しいらだっていたものの、朝食の弁当を見るにつけ、すっかり人懐こい彼に戻っていた。ひょっとすると、空腹だっただけなのかもしれない。

 汽車はしばらく街のなかを駆けていた。特別急行というだけあって、シフルの故郷であるビンガムを通過するのに半日もかからなかった。汽車と同じ速度で市街地の風景は飛び去り、いつしか窓の外は田園地帯の緑一色だった。

 ルッツは朝食に手をつけず、ベッドに横になった。メイシュナーとのいつもの修羅場が終わって、乗り物酔いがぶりかえしたようである。メイシュナーも病人相手にけんかは売れないのか、黙ってラージャ語文法を復習していた。シフルとセージは、ルッツに遠慮しつつ話をしたり、ラージャ語の発音を練習したりした。

 田園地帯を越える前に、あたりが暗くなった。夜間、外は暗く、何も見えない。もうバルティクは過ぎたのだろうか。バルティクはセージの出身地サイヤーラ村の最寄り駅である。最寄り駅といっても、そこから乗りあい馬車でかなりかかるので、とても近いとはいえないのだが。

 翌朝は、空の白みだすころに目が覚めた。四人は、学院の制服に《若人》役のローブをはおった、そのままのかっこうでベッドに入っている。シフルはカーテンの隙間からもれる光に起こされた。眠い目をこすり、身なりを整えると、窓辺に近寄っていく。まだ他の三人は眠っているので、光に気をつけながら外を見た。

 外は荒野である。いつのまにか、プリエスカらしい瑞々しい景色は、影もかたちもなくなっていた。

(なんだ、これ……)

 シフルは呆気にとられた。乾いた大地には、枯れかけた木がところどころに生えるだけで、他に何もない。ただ広く、どこまでもどこまでも、荒れた土壌がひろがっている。

「パチアに入ったね」

「セージ!」

 彼女が音もなく背後に立ったので、シフルは肝を潰した。セージはしてやったりと笑った。

「私、前に一度、パチア自治州まで歩いていったことがあるんだよ」

「へえ……、本当に? セージん家から、けっこう距離あるんじゃないか」

 シフルは聞き返す。セージは得意げに答えた。

「距離といっても、たかが十キロだもの。すぐに行って帰ってこれるよ」

 彼女はそのときのことを語る。両親にはいつも、国境に近づいてはいけない、と教えられていた。国境のむこうは自分たちの国ではないから、と。前の休戦協定のおり、ラージャスタンの国土の一部を名目的に独立させた地域だが、住民の意識としてはラージャスタン寄りにちがいなく、プリエスカに悪感情を抱いている可能性も高い。

 それに、パチア自治州に近づけば近づくほど、空気が乾燥し、気温も上昇してくる。準備もなしに入りこむのは危険である。

「じゃあ、国境は簡単に越えられるってこと?」

「うん、国境は涸谷(かれだに)だからね。時期を選べば、赤ん坊でも越えられる。あんなだだっ広いとこ、見張りの立てようがない」

 涸谷とは、乾燥地帯にみられる地形で、雨季と降水時のみ水が流れる川のことである。ラージャスタンの季節は雨季と乾季に分かれているので、雨季には川となり、乾季にはただの窪みになるのだろう。現在ラージャスタンは雨季に入ったばかりらしいから、プリエスカ・パチア間の自然国境には、今ごろ水がとうとうと流れているのだろう。

 セージは乾季を選んでパチア自治州にでかけたという。親の言葉どおり、歩いていくうちに風景が乾きだした。いつしか、なじみのある緑の田畑は消え失せ、いつも湿りけのあった大地は、歩けば砂埃のたつ乾燥具合だった。当時十二歳のセージは怖くなり、国境のシェラブ川なる涸谷を見届けると、足早に家へ帰った。

「今度はあの先に行くんだね」

「楽しみだな」

「うん」

 前に一回来てるけど、と彼女は唇に指をあてる。シフルは笑う。セージは先日、《時空の狭間》通過時にはぐれてしまい、ラージャスタンへ落ちた。そのさい、現地の人間から発音を学んできたというのは、さすがの抜け目なさだ。シフルも遠目に、セージが交流をもったというラージャスタン人少女を見た。豊かな亜麻色の髪の、きれいな少女だった。いいものを着ていたので、たいそうな身分なのかもしれない。

 夢中になってしゃべっていると、ルッツとメイシュナーも起きてきた。それで、珍しく四人仲よくラージャスタンのことを語りあえたと思いきや、例によって些細なきっかけでメイシュナーがルッツにつっかかっていき、車掌が朝食の弁当を運んできたときには、またしてもメイシュナーは水壁の中だった。

 昼食が供される時分には、パチアの沙漠に、地を這うような緑がぽつぽつと見られるようになった。ささやかな緑は汽車が走るにつれて濃くなっていき、気づけば汽車は森の中を疾走している。そうしている間に、日が暮れた。グレナディンで汽車に乗りこんでから、二回めの夕暮れである。おそらくは、もうラージャスタンに入っているのだろう。

 あたりは漆黒の闇に包まれ、窓の外は何ひとつ判別できるものがない。ときおり、木々のはるか彼方に星が輝いている。ファテープル到着は夜中だ。

「もうじき! もうじきだよな!」

 シフルは興奮して、いてもたってもいられなかった。やかましく足をばたつかせるので、憔悴気味のルッツが恨めしそうににらんでくる。

「……うるさいよ、シフル。自分が元気だからって、はしゃぎすぎ」

 ルッツはいまだに乗り物酔いが治っていない。彼の食事は、全六食のうち四食もたまっていた。残り二食は、自分のぶんだけでは足りなかったメイシュナーが片づけたのであり、ルッツ自身は二日間食事をとっていない。

「ごめん、ルッツ」

 シフルはいちおう謝ったものの、

「——だけどだけど!」

 と、声をひそめてじたばたした。ルッツは眼をすぼめ、メイシュナーは天敵が不調なのでニタニタし、セージはあいまいに笑っている。

「ファテープル市内に入りました。あと三十分で着きますよ」

 車掌がそう伝えにきたのは、その矢先である。シフル、セージ、メイシュナーは喜び勇んで下車の準備にかかり、ルッツも重いからだを持ちあげて身支度した。ルッツの荷物は、シフルとメイシュナーが手分けして運んでやることにする。むろんメイシュナーは、おれは死んでも猫野郎の荷物なんざ運ばねえ、と言い張ったのだが、

「水(アイン)と一緒にラージャスタンの地を踏みたい?」

 と、セージが脅迫し、有無をいわせなかった。

「今日、君たちが泊まるところだがね」

 一連のやりとりを目撃した車掌の老人は、それでも年輪でもって穏和さを保つ。「今日は、ファテープル駅舎の宿に泊まってもらうことになっています。明日の朝、宮殿から迎えがくるからね」

「はーい、わかりましたー!」

 シフルはルッツの用意を手伝いながら、意気揚々と返事をした。支度が終わると、もう大人しく待っていることなどできず、コンパートメントを飛びだした。乗車口の窓に張りつき、今か今かと外の景色をうかがう。窓ガラスに額を押しつけ、汽車の行く先をじっとみつめた。

 遠くに灯りのかたまりが見えた。それが駅だった。ファテープル駅は闇のなか、大量のランプの光によって浮かびあがっている。

 汽車はホームに滑りこんでいき、やがて停車した。ラージャスタン式の服装をした駅員らしき男が、シフルのいる乗車口を開けてくれた。シフルは勢いよく汽車を飛び下りる。

「——《こんばんは》!」

 満面の笑顔で、駅員にあいさつする。

「《ああ、こんばんは》」

 駅員もラージャ語で返した。「《ようこそ、ラージャスタンへ》」

「《ありがとう》!」

 シフルは荷物を抱えて駆けだす。

(ラージャスタンだ)

 ——着いたんだ!

 シフルは走りまわり、駅を見渡す。駅舎自体の造りはプリエスカとさほど変わらない。けれど、《ファテーブル》という駅名はラージャ語表記だし、駅員もラージャスタン式のかっこうをしていてラージャ語会話だ。当たり前のことではあるが、シフルは今、かつて訪れたことのない場所にいると思うと、胸おどらずにはいられなかった。

「シフルー!」

 遅れて降りてきたセージが、乗車口で呼んでいる。「ドロテーアの荷物!」

「はいはーい」

 大量の荷物を抱えてヒイヒイうめくメイシュナーのもとに、シフルは足どり軽く走りだした。

 他の旅客も続々と汽車を降りてきて、ホームを埋めはじめた。シフルは出口をめざす人ごみに逆らい、留学メンバーの三人に合流する。

「ルッツ、大丈夫か?」

 トランクを持ちあげて、シフルは尋ねる。

「その元気、分けてほしいね」

 ルッツは重い足どりで歩を進めている。疲れたまなざしを、シフルに向けた。シフルはにかっと笑い、

「オッケー、分けてやる」

 と、明るく告げる。

「気休めはいらないよ」

 ルッツはうんざりした様子でため息をついたが、シフルは実際、分けられるものなら分けてやっても支障ないぐらいに、からだの内側が気力で満ち満ちているのを感じていた。それほど、ラージャスタンという国が教えてくれるのだろうさまざまなことは、少年にとってえがたい魅力を秘めており、この国が永遠の仮想敵国であることを差し引いても、なお期待は膨らむのだった。

(何が待っているのだろう)

 ——誰が、待っているのだろう。

 セージの家に遊びにいったおり、シフルは同じ問いを彼女にした。彼女はあのとき、シフルの問いにある深さを充分に察したうえで、単純な答えを返した。皇女とトゥルカーナ公子、それに蛇のごとき女官頭、と。暗に、行ってみなければわからない、と言ったのかもしれない。

 今こそ、ラージャスタンに来た。

 出会えるかもしれない。出会えないかもしれない。少なくとも、それははっきりする。

 ——精霊王。……

 ラージャスタンの人々は、かの者を知っているだろうか?

 今日は眠れそうにない、とシフルは思う。興奮したあげく睡眠が足りなくなっても、ラージャスタンの人々とかの者との関わりが変わるわけではないけれど、とにかく目は覚めきっていて、都合よく眠りに入れるとは思われなかった。

 

To be continued.

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